二宮尊徳の高弟に、富田高慶がある。相馬藩にて報徳仕法を実践し、二宮尊徳の意志を受け継いで数々の成果をあげた人です。
歴史には、功績を上げるために何かをする人と、思いやりや真心をもって人々のために尽くす人がいます。前者は、他人のためといいながら実際は自分の名誉や地位、その欲のために行うことになりますが後者はそういうものではないもののために譲り尽くそうとするのです。
二宮尊徳の実践は大変厳しく、常に民の立場を慮り民の心になってともに過ごし上からの報酬などは一切もらわず質素に事を為すことを誠をもって勤めていきます。
人はすぐに功績を自分の物にしたいと思うものですが、そういうものがあるから余計な気持ちが芽生えてくるのだと思います。我が我がというものがあるのも、いつまでも過去の功績にしがみ付いてそこから離れないのもそういうところから来る人間の欲であろうとも思います。
不思議ですが、囚われのない人は融通無碍に自分の功名などは気にもならないのでしょうが次第に人は自分の立場などの認識を持ち謙虚さを見失っていくものです。
そもそもその功績とは本来は天に与えられたもので、それに自らが人事を尽くさせていただくことでお役に立つ幸せを実感することができるとも言えます。つまりは、天の法則に対して人の道を尽くすということで私たちは生き生かされて互いに安住安心していくことができる生きものともいえるのです。
二宮尊徳の意志は、富田高慶というご縁を経由しその意志が松下村塾の品川弥次郎、西郷隆盛、渋沢栄一などに引き継がれて日本の経済の礎になっていくのです。このご縁というものの中では本物は感化しあうというか、必ず道が繋がっていくことを思えば真理真実の真心の道を実践した人たちは必ずいつの日か天の下で通じあう日がくるのだと思えます。
その富田高慶の組織改革の重要性について下記の語録が残っていてとても共感しました。
「それを主張した者が、己れが功を取る気になるといかぬ。十分に骨を折って、功を人に譲る気ににならなければならぬ」
(これは自分がやろうと言い出した人が、自分がそれをやったのだという功績を持とうという気持ちが一番いけない。何よりも誰よりも苦労をかってでて、その仕事に何よりも尽力し、その成果や功績は他の人に譲る気持ちにならないといけません。)と。
これはとても至言であると私には思います。
人はすぐに自分の功績にしたいから、どうしてもその身につけた力をいつまでも私物化して手放そうとはせず、そしてそれは自分がやったのだとしていつまでも他の人に譲ろうとはしません。譲ろうとはしないのは、自分の功績だと思っているからで本来はもっとお役に立ちたいと思うならそんなものにしがみつかずに誰よりも大変なことの方に取り組んでいくのが本来の人の道の姿であろうと思うからです。
そもそも謙虚になれば自分がやったのではない、これは皆の御蔭様をもって皆のために自分がその尊いことをさせていただいたからこそそれを為したらその功績と力はすぐに他の人に譲り、さらに自分はもっと大変な方を選び、その苦労を自らがかってでてももっとお役に立とう、そのような仕事を自分にさせてもらおうというのが推譲の精神のことであろうと思うからです。
そして志と力がある人ほど、そのように謙虚であることが何よりも周囲を活かし組織を改革していくのだろうと思います。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
成長していく方を選んでいく人生、御役に立つためにいのちを活かしていこうとする人生、常に自身の人格を磨き、謙虚に取り組んでいけるよう初心を大事に精進していきたいと思います。