旅路

今年も藤森先生のドイツ研修のお手伝いをさせていただくことになり本日からミュンヘンへ行くことになりました。

昨年の有意義な学びを振り返りつつ、新しい学びがはじまっていることに旅のご縁を感じます。

旅というものは、もちろん何処へ往くのかという楽しみもありますが誰と往くのかというもう一つの大きな楽しみがあります。同じ旅でも人とのご縁次第では、また新たな発見もありそして成長があるからです。

どんな人と往くのかというのは私にとってはとても大切なことで、同じ学びをしたいと願った仲間との邂逅であるとも感じています。このドイツ研修の同窓会を通じて、私は旅というものが如何に人生そのものであるか、そして人生はこのように旅を確かめることで味わうのだとも感じることができました。

長年一緒にいたとしても、旅をしてはじめて分かり合う関係もあるように思います。
時が過ぎるのがあっという間だからこそ、人生の旅路というものは不思議に満ちています。

今年は昨年の旅の振り返りもできるという倍の歓びも感じています。
子どもたちのためにと行動する真心が、新たな学びを与えてくださる予感に満ちます。

前回の旅を振り返ることで、過ぎ去った時間をもう一度旅することもできるのです。

私の好きな松尾芭蕉の奥の細道の句にこうあります。

「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」

日々に過ぎ去っていくときの流れにときめきながら、自分が旅人であることに邂逅します。また皆の代わりに往かせていただく有難い機会を感謝に換えて、ドイツ研修のレポートしていきたいと思います。

 

御蔭~環境コーディネートの本質~

昨日、今年の作物が無事に収穫できたことに感謝し見守ってくださっている方々、神社、お地蔵様に奉納を行いました。

最初は不可能と思えることも真心を尽くしているといつも天の恩恵が得られます。
そして今回も大事なことに気づくことができました。

もともとの作物は、種から育ち実をつけまた種になります。
そのいのちのめぐりや出会いを通して生きものたちは歩んでいきます。

お米も大豆も、育っているのを観察していると様々な自然の恩力の御蔭で育ちます。
そしてそれを見守る私も、そのものの持ついのちの恩力、御蔭を感じています。

これは環境そのものを感じているのです。

自分が育てたとなったり、自分の都合でやったとなるとそれは御蔭ではありません。
感謝というものは自分がやったのではない何かを感じる時です。

そしてそれは周りのハタラキによって自分が収穫できたと気づくということです。

全ての作物は、そのものの作物が育つのです。
それを私たちは少しだけ手伝うことができても、それを自分が育てたのではないのです。

自分が育てたという発想は、どこか自分の力でやったような錯覚があります。

しかし実際に自然農をしてみると、育てたのは自分ではなく育てられたのが自分でありました。さらには、そのもののいのちが育ったのであって私は何もしてはいないのです。

だからこその環境が大切であろうと思うのです。
環境をコーディネートするというのは、そもそもの発想が転換されているのです。

つまりは、そもそもいのちがあるのは「御蔭である」という意味です。
だからこそ、その環境に対していつも感謝するのだと思います。

昔より奉納するのも、見守りに気づいていたからであって感謝のためではないのです。
忘れないためにではなく、御蔭をいつも感じるかんながらの民であったからです。

心は、万物に活かされていることに気づき、その徳性に出逢うときいのちを感じます。

震災からはじまり、子ども達のためにはじめた実践の有難い学びを皆様へ奉納いたします。

心命の気づき

仕事に取り組むときに、これは業務なのか、それとも役割なのかというものがあります。

言われたことを単にやることが仕事ということになると、その仕事は単なる業務になってしまいます。仕事は言われてから考えるという癖を持ってしまうと、そもそもその仕事は何なのかということも考えずに動けるようになってしまいます。

本来は、どの仕事もそうですが目的や使命があり発生しているものです。

例えば、お店の料理なども上の人から指示がきて作業とするのと、本来何のために料理をするのかではその工夫もそうですが智慧もそして真心も籠っていくのです。つい忙しいとか言い訳をしますが、忙しいからではなく、心を使わないと言っているだけで別に作業がいっぱいというわけではないのです。

つまり作業量のことよりも、心を今は使えないと言っているのですが本来は心を使えば逆に作業量は特に影響もないはずなのです。心と使わないというのは、いのちを使わないということでそうなるから無機質な感じがするのです。

これを例えると、作物でいえば結果だけを求めて肥料農薬で一気につくったものと、自然の中で真心で手間ひまかけて育ったものとの違いに似ています。

業務が増えた時は本来は一度、そこから離れて何のためにやるのかと見失った本質を考える機会にするのもいいし、急がない焦らない面倒なことから丁寧に行うとし離れそうな心を呼び戻すのも一つの方法論であろうと思います。

しかし実際は、仕事は常に役割という捉え方にすればいいように思います。

ちょっと極端からも知れませんが、私たちはそもそも大きな天からの使命を与えられています。つまりはお役目というものがあってこの世に生まれてきていると言います。かの教育者、森信三にも「人はこの世に生まれた瞬間、全員が天から封書をもらって生まれてくる。その封書を開いたら、あなたはこういう生き方をしなさいと書いてある。しかし、せっかく天からもらった封書を一回も開かないまま死んでいく人が多い。」とあるように、その役割に気づけるかどうかというのは大変重要であるのです。

一度しかない人生を自分の人生を大切なお役目を果たそうとして生きるのか、そうでないのかは自己実現という人生の大義に関係してくるものです。

つまり生き方として、生まれてきた以上お役目を果たしたい、みんなのためにも自分を活かしたい、貢献していくことで役割を担いたいと思えば、すべての出来事は「している」ではなく「させていただく」ということに転換されるのです。

自分がさせていただけるのならとしていく生き方は、みんなから頼まれ任され信じられる方を優先した方になります。そしてみんなからの頼まれごとをちゃんと丁寧に誠を尽くしてやっていけば次第に自分が活かせる本当の場所に出逢うようにも思うのです。

自分がどうしていいか分からないのであればなおさら、頼まれごとを引き受けていくこと、もしくは役割を貰うこと、自分がさせてもらえることに歓びを感じる方へと自分を運ぶようにしていくことがその封書の内容に気づけるように思うのです。

自分が何を求めているのか、そして何を求められているのか、常にその前に天を戴くことが大切であるように思います。自分のご縁を辿りながら、どのようなことをさせていただけるのか、思えば思うほどに有難いことだと実感します。

子ども達のためにも、まずは真心の生き方ができるような自分を磨いていこうと思います。日々に心の方を優先していくように歩んでいきたいと思います。

当たり前のこと

人間は次第に当たり前であることに気づかなくなっていく生き物です。

あって当たり前、これで当たり前というように、今あるものよりもないものへと意識が向いてしまうものです。しかし本来は、強く願ったことで手に入ったものでも実際は手に入るとそれまでのように感じてしまいます。

なくてはならないものがあって当たり前になるのは、感謝が足りないからとよく言われますがこの感謝とは何かということです。

今の自分を存在さしめているのは周囲の存在があってはじめて成り立つものです。

今の自分でいられるのも、今までの周囲があってこれからの周囲が存在しているからです。

これが滅多にない、つまりは有難いことだと実感することをいうのだと思います。

このように、自分の周囲がありふれていること、いかにもふつうであること、ありきたりで珍しくもないことを私たちは当たり前というのですがこの当たり前を感じる時、実は人は平和であることを感じ、幸せであることに気づいたりするもののように思います。

自分の周囲が当たり前にいることは、周囲も当たり前の幸せを享受しているということです。
だからこそ自分がどう生きるのか、その生き方そのものが周囲の当たり前に貢献するのです。

特別なことをしなくても、自分が感謝とともに歩んでいくことは周囲を幸せにしていくことだと思います。自他というのは、とてもシンクロしていて自分が運が善い時は当然、周りも運が善く、自分が幸せなときは当然、周りも幸せ、そのように自他同然であるのです。

当たり前やふつうということ、ありふれた日々というのは周囲もあっての自分なのです。

そしてこれもご縁というものを感じる時に味わえるものです。

滅多にない出会い、有難い出会い、この有難さに気づき続けることがご縁なのです。

こういう当たり前に気づける感性を気づくにも日々の内省とともに、どんな時にも常に自他を活かすことを考え抜かなければ鈍っていくものです。

子ども達の幸せを願うのだから、常に自分を活かし周囲を活かし、それを当たり前にしていくような自らの徳性と尊び天命を畏れるような生き方を実践していきたいと思います。

モノサシを持つ

よく競うことがよいのかよくないのかという議論があります。

学校などでは常に競争するような環境があり、テストの点数や運動会の競技などでも互いに切磋琢磨のためにと競争させます。社会に出ても常に成績や結果などを確かめてすぐに競い比べようとします。

そもそもの基準がなにを競っているのか、何を比べているのかがあるのです。

知識の理解度を比べたり、身長を比べたり、早い遅いを競ったり、良い子悪い子を比べたり、能力を競ったりと、比べたり競ったりを何かの基準を設けて取り組ませているのです。

その誰かのモノサシによってできるできない、善い悪いを平均と比べてどうだったか、またみんなと競ってどうかというものを感じているのです。競ったり、比べたりというものは、誰の何の基準でそれをやっているのかで感じるものも異なるということです。

つまり誰かのモノサシで競争も比較もされているのです。
それを無理に押し付けられることは自分が尊重されていない気がして辛くなるものです。

例えば、誰かと競い比較してしまえば劣等感というものが生まれます。自分が勝った負けたで他人と自分を比べて競争するのですがこのモチベーションは分かりやすいものですがこの基準やモノサシは自分の外にあります。しかしこれが自分自身と競い比較するのは、以前の自分と比べて善くなったということや、成長したことなど確認することができます。

比較するかしないか競争するかしないかではなく、何のためにするかということなのです。

今の社会もそうですが、他と比べて競うことの基準がどうなっているかはその都度の自分のモノサシを観る事で理解していくことはできます。 誰かのモノサシに合わせるのではなく、それを自分のモノサシに再設定するという方法もあるのです。

常に出来事はたくさんのモノサシがあっていいしそれが社会に出てからの生きる力になるのです。自分も何でも機会を活かして試したいと思うのは、モノサシさえ変えれば色々な観方があるのを知っていてそれを楽しむことができるからです。 この自分のモノサシを増やしていくことが人生をより充実したものにしていくように思います。

しかし、実際の人生には競えないものや比べないものもたくさんあります。

思いやりや優しさ、幸せや満足感、遣り甲斐や生き甲斐などもともと比べようもないもの、競う必要のないものの大切さは生きていく上で何よりも学ぶ価値があるように思えるのです。

私は学校では学力や体力など比べ競うことが優先されていますが、もっと大切なことがあるのではないか、そういうことを昔は分かち合う時間がゆっくりあったのではないかと思えるのです。

あえて競わない比べないところに焦点を当て、その豊かさや幸せ、思いやりを味わうことは自分らしく生きていくことの大切さ、そして自分そのもののモノサシを持つことを教え導くように思います。

子ども達には自分のモノサシを持てる自信がある生き方を選んでいってほしいと思います。

 

思ったら即行動の本質

昨日、行動のことに触れましたがこの行動というのはとても意義があるものです。

自分の思い通りにいかせたいという欲があるからだと思いますが、この思っていても行動しないのは我欲がラクをしたいからのように思います。

例えば、ラクと楽の違いの話を以前のブログでも書きましたが ラクな方はできるだけメンドクサイことをしなくても良い方法ばかりを考えて行動しようとはしません。だからいつも自分が動かなくてもいい方ばかりを考える癖を持ってしまいます。しかし楽しい方の楽は、たとえ面倒であってもそこに足を運び、自分の身体と心と時間を使い取り組むことで考えていることを同時に働かせることができるようになりそのものの本体や本質に気づけてカタチになるから楽しくなります。

つまりラクと楽しいの差は、考えただけで動かないことをやりたいか、もしくは動くことで考えることをやりたいかの差にもなるのです。実際は体験してみないと分からないものを、極力体験しなくてなんとかしようと思っているのに真に気づくことはできません。

なぜなら大前提として、自分から全部の器官をフル活用してでもという本来の好奇心が活動していかないからです。人は興味を失い、ワクワクしなくなりときめかなくなるのはそうやって自分から行動することをしなくなるからなのです。

私も時折、楽しくないなと思えるときはもっと面倒でも動くことや感じたことをカタチにすること、もっと自分から身体も心も考えも総動員して取り組もうとして自分の好奇心が失われないように工夫しているのです。

考えているだけの人というのは、実はラクをしたいだけなのです。

楽しもうとするためには、行動するのが一番でそれがカタチにしていくことなのです。

分からなければ、自分から他人に聴きに行く、知りたければ、自分から知りに行く、できなければ、自分からできる人になりに行く、この「行く」というのは行うという意味で実行するというときの行くですが、行動という字は動いているということが行うという意味なのです。

遠い先のビジネスプランとかを社内で考えているよりも、自分の身体も心も常にお客様のところに運んでそこで考えている方が行動になりますし、企画も発見なども部屋でじっとしているよりも具体的に実行しながら考えた方が楽しくなるのです。

ラクのためにそこから逃げようとしたらその見返りとして楽しくなくなるものですし、それに運というものは自分から運に合わせて行動しているからいつも運が善いのです。運についていこうともしないでじっと考えているだけでは何も変わらないし自分も変わりません。

思ったら即行動というのは、実は行動しているときが真に思うということだよと教えてくれる格言なのです。つまり「思ったらすなわち、それが行動(行動こそ思い)」という意味です。

行動を大事にしていくことで子どもたちのように好奇心を育てていきたいと思います。

行動

分からないものを理解するのには行動していくしかないと思います。

人の苦労の共感でも然り、相手のためにと思えば自分が体験するのが一番です。自分が相手だと思えるようになってくると、自分が無意識に相手と同じような体験をしてくことができるものです。

万人のために生きるというのも世の中のために貢献するというのも、気が付けば目の前にいる相手が自分に思えてくるから不思議です。その不思議さの中には繋がりの中にある自分、いのちは一つで相手と分かれていない自分があるのです。

主観や自我がだんだん至誠や真心によって薄くなっていると、そういう感覚はよく起きてきます。そしてそういうとき、相手のことだと思っていたことがすべて自分のことだと思えるようになるのだと思います。

子どものためと思えば、大人や子どもと分けるのではなく、自分が子どもだったらどういう大人がいいだろうかと考え抜いていると自然に子どものための大人になっているものです。子どもから考えるというものも、もしも自分が子どもだったらと考えると同じことだからです。

そして全てのことは行動しなければなりません。

行動しているというのは、実際にそれを体験し実験するということです。
松下幸之助さんの言葉にこういうものが残っています。

「塩の辛さ、砂糖の甘さは学問では理解できない。だが、なめてみればすぐわかる。」

このように、実際の体験をしてみなければわかるはずがないのです。勇気というものは相手のためを思うとき、自らのことは構わずに困難に突進していくことができるようなものです。そして思いやりをもっていれば次第に相手のために自分がその困難を共にしようという気持ちになっていくものです。

人は思いやり相手を自分と思うときにこそ、行動が伴っているのだと思います。
日々は貢献によって自分を活かせていけます。

ひとつひとつの行動の意味を味わっていきながら真の学問を深めていこうと思います。

天真爛漫な子ども心

昨日は洗練されることを書きましたが、これとは逆に擦れるというものがあります。

よくあの人は擦れているという印象を持つことがあります。この擦れているという意味を調べると、世間ずれする ・ 世慣れる ・ 世故に長(た)ける ・ 悪ずれする ・ すれっからしになる ・ 純粋でなくなる ・ (人間が)堕落する ・ 悪くなる ・ 汚れるなども書かれていますが、簡単に言うと世間慣れして刷り込まれているということになると思います。

この擦れるというのは、擦れる方ではなく私には刷り込まれるということだと思うのです。

なぜ人が純心でいられなくなるのか、素直になれずに穿ったものの観方や歪んだものにするのかは世間はそういうものだと安易に考えてそれに合わせて自分らしくいることを放棄していくからのようにも思うのです。

いつまでも刷り込まれないで生きている人に出逢うととても素直であると感じます。
そこには心を常に高くしていこうとする姿勢、自分の素直さを大切にする生き方があります。

そもそも刷り込みというのは、本来はそうではないものを世間や一般の価値観の方が正しいと勘違いして間違ったものを信じていることです。人間の都合や誰かの都合、自分の都合のいい方へと解釈してそれを正しいと信じ込まされることのようです。

世間のマスコミなどもそうですが、そういうものを見て安易に信じこむのもゴシップ記事や週刊誌に意識が囚われてしまうのもそういう刷り込みを持つことになります。純粋な人は世間に疎いと思われがちですが、ただ知っていることと知らないことの差ではなくその一つ一つに感動し感激するということができるということなのです。

いつまでの擦れない、刷り込まれないで生きるには日々の出来事に感動する感性を磨いていく必要があります。それは素直で在り続ける自分を維持することであると私は思います。

例えどんなに世間がそうだからと理不尽なことをされても言われても、いつも自分が素直に物事を受け取り、学ばせてもらっているから有難いと感じ、尊い体験をさせてもらっていると味わっていくとその純粋純心さはどんどん磨かれていくように思います。

同じ「すれる」でも刷れると磨れるでは意味が異なります。

正しくいたいと思うことで、いつも自分を素直にしていこうと精進していくことが本来の純粋な生き方、玉を磨いて美しくしていくように透明な心のままに生きていくことだと思います。

私が大好きな子どもが子どものままにいるためにも、周囲の大人はいつも素直である生き方を示していきたいと思うのです。素直な大人に見守られた子どもたちは天真のままの心を維持する強さを信じる事を学びそれをずっと大切に大人になっても持つことができるのです。

どんな出来事があってもそれでも擦れないというのは、心の強さ信の厚さのように思います。

いつまでも自分のままでいるように美しく健やかに天真爛漫な子ども心を見守っていこうと思います。

洗練

世の中には洗練されたものというのがある。

これは、ものを洗いよく錬られているからという意味で辞書には書かれているけれど簡単に意訳すれば最も本質的なカタチに近づいているからということです。

物事も人もモノも全部そうですが、長い経験の中で最もどの形になることがそのお役目や役割を果たせるのかを考え切れば次第に洗練されて竟には本質そのものになるものです。

つまり洗練されていないものというのは、上辺だけの見せかけのものということになります。

これは商品においてもいえると思います。

例えば、ホームページなどはその最たるものですがもともと相手のニーズだからといいつつ飾ったり変な機能をつけたり、付加価値を補てんしたりと、トレンドにあわせてデザインを作り替えるビジネスのようになっています。

しかし本来は、何のためにやっているのかを考え切れば同じことをやったとしても意味はまったく異なりその全てのデザインは本質を捉えたものになっているのです。

本来は何のためにそれをやるのか、商品とはそれを創った人の本質が顕われるものです。売り物のように勘違いしますが、そうではなくその創始の思いが入ったものが洗練されて今のカタチになっているとも言えるのです。

ブランドというものは、その価値がそのまま洗練されて本質により一層近づくことをいい、それにトレンド取りいれ本来のカタチは失わないままに新しい時代にあったものにしていくということを伝統と革新、温故知新とも言っていいと思いますが、これを私は洗練というのです。

どれだけ本質的であるかを究め続ける事は、創始の心から今まで失ってはいけません。何世代も何千年も何億年もかけても、常に私たちは本質を究めることができてはじめてその心を受け継ぎそれを生きたものにして守ることになるのだと私は思います。

子ども達のためにと思えば思うほどに、「本物」を遺していきたいと思うのです。
常に自らの姿勢で究め尽くして本質のカタチをいつまでも追い求めていきたいと思います。

これから世に出す新たな商品は、さらに本質を深めた洗練されたものになると信じています。心の迷いを洗い、頭の惑いを洗い、全てを綺麗に洗濯して新しく練りなおしていこうと思います。

理念の浸透

毎月、会社では「だんらんち」というものがあり昨日もその実践を皆で楽しみました。

今年は特にテーマが発酵であるため、菌から学び、菌を取りいれ自らを発酵させていくことでチームの本質や元々の共生の在り方などを学んでいますから発酵食品ばかりです。

昨日は、きのこを使って料理をしましたが私にとっての料理とは自分の思想の表現方法の一つでもあります。特にカグヤでは玄米クッキーというものもありますが、あれもカグヤの実践を伝えるものとして心を載せていくことができます。

だんらんちについての会社の意味づけですが資料ではこうなっています。

※会議日の昼食は、「だんらんち」を実践する。【目的】①共食・団らんによって、仲間意識を高めるため②季節のイベントや旬の食材、玄米や重ね煮、発酵食品等、食材やメニューにこだわることによって、健康促進と共に、自然への意識を忘れないようにするため③手間や心配りを大切にした、手づくり料理により、心をこめた豊かさを楽しむため。

これを確認すると分かるように、料理も食べることも食材もすべて意味づけがあるのです。

つまり何でもそうですが最も大切なのは「何のためにやるのか」であるのです。
それがあるのとないのでは意味はまったく異なってきます。

同じことを実践していても、基点となっているところが本質的であるかが大切だと思うのです。

きのこ料理でいえば、今の旬の秋の恵みをいただくことも感じられますが同時にたくさんの種類を煮たり、炒めたり、炊いたりすることで、より偉大な調和を感じることもできます。

12種類ほどのものを用い使いましたが、ほとんどの味付けは必要ではなくそのものの持ち味が活かされて私たちはそれを味わいます。

そしてきのこがなぜ協力したカタチであるのか、そしてその形成のプロセスを学ぶことでそのものからなぜきのこなのかを知るのです。好奇心も心の働きですから、そうやって心を遊ばせていくのも学問の素晴らしさで共にそういうものを感じることが育てることにも繋がります。

人はつい目先の動いていることや、あっていることばかりに目を奪われて本質を考えませんがそこにどんな意味があるのだろうか?それは一体何なのか?を思うことは何よりも大切です。

そして全てのやることが、何のためにやっているのかを感じることが理念から学ぶことだと思います。

本質であることが理、そしてそれをカタチにしていくことが念、その両輪が日々の実践を通して浸透していくということだと私は思います。

私にとってのこのだんらんちは、理念を浸透していくための大切な機会です。

これからも遠慮なく料理を楽しみ味わい、心を通じて表現し伝えていきたいと思います。