道といわれるものでもいろいろと思うことがあります。

例えば、武士道というものがありますが武士道は武士でなければできないものかといえばそうではありません。そして随神の道というものも、別に神主でなければできないものかといえばそうでもありません。

つまりは道というのは、別に職業の道ではないのです。

さらにいえば、経営道やコンサル道、教師道などといろいろと言われますが職種や肩書がそれだというのは本来の道から外れているのではないかと思うのです。

どのような環境であっても道は失われないのは、その道が一つのものであるからです。

今の時代は道が間違って伝えられ、かんながらの道は神主道になり、仏の道も住職道になり、またさらにおかしなことに孝の道も、福祉者道やボランディア者道、育の道も、園長道や保育者道のように人や肩書などになっていて語られているのです。

本来、私たちが志す道は太古の昔から今に至るまで一つの道で繋がっています。
それを自らで受信感得し、元の道に近づいていくことこそ尊いことだと思います。

道とは、いわゆる人間の都合で語られるものではなく自然にあるものです。

二宮尊徳が大道についてこう詠みます。

「ふる道に つもる木の葉を かきわけて 天照す神の 足跡を見ん」

ルーツを辿れば、元は一つ、そして根源は一つ、その一つこそが未知、それが道です。

いろいろなことを道のように語られ分かりづらくなっていますが、その積もり積もった落ち葉をかき分け、創始開闢の心にいつも出会いつつ、かんながらの道を然がままの真心に歩んでいこうと思います。

自分で決めたいのちの活かし方~役立の本質~

自分らしさや多様性を考える時、自分自身に問うということが大切だと感じます。それをせずに周りを見て合わせたり、相手にあわせて答えを出していたらこれは自分らしさではなく多様性にもつながっていかないと思います。

例えば、植物でもそうですがある花が自分らしく咲いています。これが周囲がどのように咲くのかを見ながら自分もそれにあわせて咲くかといえばそうではなく、自分らしく自分の中にある問と答えによって偉大に成長していくのであろうと思います。

そこにたとえ蝶や蜂が飛んでこなくても、必死に自分のいのちの花を咲かせ続けます。

そのことで何かの御役に立つことを自覚しているからです。

人間はお役に立ちたいといいながら実際は、御役に立つことを知らない人ばかりです。

本来、自分がどうしたいかが分からない人にお役に立てるかどうかは分かるはずがありません。相手が御役に立ったと言われたらお役に立ったのかではなく、自分らしく一生懸命に生きた証としてそれが必ずお役に立つと信じているからお役は立つのです。

このお役の立つは、自立の立つです。

自分を如何に活かしていくか、自分を如何に自らで立たせていくかというのが本来の貢献であり、その貢献の結果としてはじめて成長があるように思います。

自然界はそのように自らのいのちを咲かせてそして貢献し、永続的に成長をするのです。そしてそれが多様性というものになりさらなる貢献と共生、そして成長と繁栄をもたらしたのです。

どのような環境下にあっても、自分で決めて自分で歩むのが自然であろうと思います。

不自然さというのは、自分で決めず自分で歩まず依存するところなのでしょう。
楽をしていのちを粗末にするのではなく、楽しんでいのちを大切にすることです。

それは自らで自問し、そして自答し、自らを必死に活かすことで楽しめるのです。
どのように自分を役立てていくかそれは自分で決めたいのちの活かし方であろうと思います。

子ども達のためにもまずは立派な大人のモデルを目指していきたいと思います。

自分らしさの純度

純度を上げていくというものがある。

もともとの品質をさらに磨き上げていくという意味でもあります。

不純物が混ざってくると本来の純度は下がっていくという感じのものです。

これは何を言うかといえば、自分自身の生き方にもよるものです。

人は他人の評価を気にして、本来の自分らしさよりも周囲への仮初の自分を演じます。
そうすることによって、本来の自分がどのように成長しているかも分からなくなるのです。

そもそも本来の自分が他者の目線を意識しすぎて歪んでいたら、自分らしさの純度は観えません。自分の純度とは自然体であるとき、また自分らしくいてもいいと安心しているときに高まっているからです。

そしてこれは自分の意識を自分にあわせて他人からの評価ではなく自分で評価ができるようになるときに高まります。もともとの自分がどうであるのか、それは自分に矢印を向けて周りや相手を意識しないときに感知できるものです。

また自分自身が一心に実践を続けていく中で自らの未熟さを覚り、自分自身と正対し、学び変化し続けることでその純度もさらに上がります。

つまり自分の品質は、自分で管理して自らの実践で上げていくしかないということです。

人は成長するとき、生きがいを感じますし、成長していると実感するときモチベーションも上がります。これは純度が上がったと感じているからです、そしてその純度は自分らしさの純度であり、本来の自分というものに出逢っていくプロセスを楽しむことができているからです。

自分というものを向き合うとき、周りが気になるのはまだ本来の自分に出逢おうとする意識が低いからのように思います。無難に生きる事よりも、自分の純度を上げていくことで本来の自分のポテンシャルに気づいていくことこそが自分を成長させていくことのように思います。

成長とは、自然であり、自然はそのものらしさを存分に発揮していくことのように思います。

子どもたちがらしさを発揮できるよう、自分らしさの純度にこだわっていきたいと思います。

 

畑に出てじっくりと雑草を観察していると色々なことにいつも気づかされます。

春からはじまるいのちは、春から夏に向け種から芽が出て実をつけ秋から冬にかけて種になり土に還ります。そして今度は秋からはじまるいのちと交代し別のいのちがめぐります。

草といっても、四季があるようにはじまりが春の草と、夏の草、秋の草、冬の草があるのです。

不思議ですが、同じ場所で同じ土に生まれても季節を分かち合うことで2つのいのちがめぐろうとするのには自然の智慧を感じます。みんなが同時に出てきたら活躍する場もありません、その季節季節に何が活躍するのかを交代で行うのはここに静動の法理があるように思います。

この季節に合わせて太古の人達は、どの時期に何を食べるのかということを考えたのだと思います。そしてその種を持ち帰り、周囲に蒔いたのだと思います。基本的には今のような飽食な時代ではないのだから、いのちを繋ぐため、生命を維持するために保存できるものを中心に育てたように思います。

飢餓がなくなったと感じるのも最近のことで、人類はずっと飢餓や飢饉との闘いに明け暮れたともいっていいと思います。それは自然の中に生きるものには必ずついてくる業であるからです。しかし矛盾もあるのですが、その御蔭で私たちはいのちをいただいているという実感を身近に感じ続けることができ自然の調和を感じたように思います。

そしてそれを維持していくための主としたのは稲によってではないかと思うのです。

人類は稲の御蔭で、一年中食べものに困らないで生活をすることができています。この国の神話の開闢も全ては、稲を持ち、稲を蒔き、稲を広げたところからはじまっているともいえます。 それは稲を育てる中で人は協力し、人は一年を通して学び、そして人としての在り方を稲から学んでいたからのように思うのです。

稲を育ててみたら、人類の在り方を感ぜずにはおれないからです。

稲には、種蒔き、田植え、水の管理、成育の見守り、自然との共生、収穫への感謝、豊穣の祈り、次代への推譲など、様々なことに気づかされます。まだまだたくさんのことを教えてくれるかもしれません。

だからこそ本来は稲を育てることは私たちが忘れてはならないことを記憶するためにも共にパートナーとして歩んできたのかもしれません。自然は互いに共生する相手を選ぶのは、それが共に忘れてはならないことを生きながら刻むことができるからです。

この時期の、黄金色の田畑を見ていたら懐かしさと共にとても美しく感じます。
この国は、何よりも稲とともに育ってきた歴史を有する場所であるのです。

もう一度、原点に帰り、失われそうなものを憶え省み、新たな出発にしていこうと思います。

 

善き思い出

昨年、訪問したドイツのメンバーで2回目の同窓会が行われました。
行事や予定がある中、ご縁を守り遠方からも多く集まれることはそれだけでも尊いものです。

毎回、会うたびに関係も深まり、また学びも深まり、振り返りも深まりと、絆がどんどん深まっていきます。通常なら、研修を終えればそこで関係が途切れてしまうこともあるのですが何度も振り返りその後を確認していくことで大切なことをいつまでも思い出すことができます。

昨日も、互いに忘れかけていた大切な思い出や学びを再び鮮明にしていくことができました。

同じ学びを共にしたものたちのことを朋というのだと私は思います。
そしてその朋との感動が素晴らしいものだったからこそまた出会いたいと思うのです。

昔を振り返ることは少ない方なのですが、善い思い出を遺すということの素晴らしさも実感しました。ひとつひとつを誠実に生きていくと、人との出会いの中には別れもまた大切な記憶です。

楽しかったもの、悲しかったもの、嬉しかったもの、辛かったもの、いろいろとあります。

そういうひとつひとつが自分を成長させていき、そしてそういうひとつひとつの確認が今の自分そのものを形成してくださったことを知るのです。

善い先生と生徒、そして友人やその仲間たちとの一期一会はかけがえのないものです。

続けていけることに感謝しつつ、来年もまた互いに出会い学べることを楽しみに善き思い出を大切に抱きつつ日々を誠実に過ごしていきたいと思います。

覚悟の学び

人は何かの判断をするとき、そこまでしてまでもやりたいのかというのがある。

子どもを観ていたら、やりたいことをできなかったとき、それを大人に抑制されたとき、反発してきます。自分がやりたいと思うことは、それが必用だからやりたいのであり別に意味もなく反発するのではなくそれが大切なことだからやりたいのです。

そこまでしてでもというのは、本当にやりたいかを自問することに繋がっています。

そしてそれを実現するのに、遣り切るというものがあるのです。

昨日、ある園での情報交換の中で楽しいのは遣り切っているからではないかという話をしました。好きというのは、そこまでしてでも好きかということ、そして遣り切っているというのはそこまでしてでも大切なことだと感じたからというものがあるのです。

自分が自分を好きになるのは、自分が好きなことを遣り切るからです。

そして自分が楽しいと思えるのは、自分やりたいことを遣り切っているからだと思うのです。自分自身を尊重したり認めるというのは、やりたいことをやりきるときに感じるのだと思います。

自分が分からなくなるのもまた、この自分を抑制して我慢をさせているからだとも思います。
本来は、教育は社会の中で自立できるように導き育てることなのでしょうが実際は社会に適合させるための人を目指しているようなものになっています。

それでは社会の中での自立ではなく、社会の中での依存や孤立を生み出してしまいます。

自由と自律、自立や共生というものは、自分が好きなことをやっていい、そしてやりたいことは遣り切っていいと認め合う環境の中で醸成していくものだと感じます。そしてそれが全体にとって正しくあるように原理原則や法理などを指導配慮していくように思います。

遣り切った分だけ、自分のことが知覚できるように思います。
本当は何なのかも、そのプロセスで実感できるように思います。

人生は常に遣り切った者価値です。

これからの子ども達のためにも、そこまでしてでもの覚悟の学びを高めていこうと思います。

自分を省みる

自分を省みるのに育てるというものがある。

今の自分は昔の自分が育てたような自分になっているといってもいい。
そして自分の周囲ももちろん、育てたように周りが存在している。

つまりは自分自身の育て方によって、自分も周囲も育っているのです。

例えば、過去に自分の都合よく周囲に接してそういう自分というものを育てていれば今の自分が思っているようなものになっているのです。つい相手が育ったとか育っていないとか相手に矢印を向けてしまいますが本当は自分がそうなるように育てたのではないかということなのです。

そして特に仕事では分かりやすいことに、育てないということがあります。営業の仕事ができるように育てられても、マネジメントができるように育てていないのならばその人は営業でしかないのです。また周囲と協力して仕事をできるように育てるのではなく、個人で職人のように働く方法しか教えていないのならその人はそういう風にしか育っていないのです。

営業の育て方とマネジメントの育て方とは異なり、そして同じく一人で仕事をするのと周囲と協力して仕事をするのは同じではないのです。

その人の働き方に文句を言う前に、如何に自分がその人や自分自身を育ててきたかを省みることが大切であると思うのです。今までやってきた仕事の仕方が合わないと感じるときはチャンスで、それは新しく育ちなおそうとしているとも言えるのです。

人は環境を変えてみて育つこともできますが、同じところで育ちなおすには関わり方を変える必要があります。よく周囲を観て、本当はどのように育つことがいいのか、今までの刷り込みを取り除かなければなりません。

そしてそれは、育てる側と育つ側の思いやりによって実現すると私には思えるのです。

思い通りに育っていないと思う前に、思い通りに育ててきたのではないかを省みるのです。
だからこそ、素直に気づいたら自らを変えていくことだと思います。

こちらの関わり方や自分の在り方を変えていくための育成であると思います。
何度も挑戦しては、省みて気づいて自分から変わっていくことこそが尊いと私には思います。

心を遣い実践を高めていこうと思います。

 

真の余裕

人は当たり前であることに気づかずに日々の喧騒に忙しくしてしまうものです。

忙しいとは何かといえば、今のプロセスを味わうことをしないことです。

今という一瞬は二度とは戻って来ることはありません。

今在るご縁や人々、その出来事は二度はないのです。
その瞬間瞬間に様々な感情が湧きたってきます。

その一つ一つを愛おしく感じるように大切に過ごすことのように思います。

もちろん、日々は様々なことが起きるし起こっています。
もしもそういうことがなければ、自分に「させていただく」こともできません。

自分の立場でばかりで物を考えていると人は誰でも忙しくなっていくものです。

相手の気持ちになることほど豊かなことはないと思えることがあります。

それは悲しいことも嬉しいことも、幸せなことも寂しいことも、そういうものを自分の中に広く受け容れた時、真の豊かさとはこの繋がりの中にあるのだと実感するのです。

時間的な余裕をいくら手にしたからと、相手の気持ちを慮る余裕がなければその余裕は仮初の余裕であり真の豊かさを感じられるものではありません。

だから私は共感というのは自他を超えたところにあるのではないかと私は思うのです。

場所を超え、時間を超え、垣根を超え、生きものの違いをも超える気がするのです。

いつも心に自分以外のものを容れる器を広げておきたいと感じます。
なぜならそこに思いやりや真心があると思えるからです。

当たり前のことに気づける感性を、何気ない日常に得られる歓び、出会いを楽しんで美しい地球にいることに感謝しつつ、子ども達の健やかな生長を楽しみたいと思います。

稲と種

日本人ともっとも馴染の深い文化の中に、「稲作」がある。

由来は柳田國男の調査で東南アジアから海の道を経て種と一緒に移動してきたという説もあるようですが、私も島々との神々との信仰の歴史を鑑みているときっとそうではないかと思います。

人はなぜ新しい場所を目指すのか、環境の変化にあわせて移動することも私たちの自然の行動だったのではないかとも思います。環境に順応していくことで、多くのいのちとともに新しい場所へと移動していく。

これは今も昔も変わらないものであろうとも思うのです。

自然を征服しようとするものは、狩のように獲物を追って移動していきます。
また自然と共生しようとするものは、農をしながら友人の生きものと共に移動します。

私たちの祖先や祖霊が八百万の神々と呼び周囲を活かそうとするのは、伝説を通じてどんな環境の中でも共に助け合っていきようとしてきた子々孫々への智慧の伝授なのかもしれません。

そして稲は、私たちの移動の中心になっていた作物です。これは私たちが水の傍に住んでいて、稲と共に暮らしの場所を移動してきたからだと思うのです。一年を通して食べられるもの、一年を通して生きていけるということは今も昔もそれによってあったということを忘れない大切な行事です。

食文化というのも、食のことではなく、もともと文化そのものという意味なのでしょう。

それに漢字の「年」は、元々は「秊」(禾 / 千)と表記された字で、部首に「禾」が入っている点からも解るように、稲を栽培する周期を1年に見立てていたようです。

私たちは一年を稲を中心に見立てていたからこそ、88の手間暇をかけて育てていきながらその年の見通しをもったのかもしれません。一年間かけて稲の観察をしてきましたが、いつがはじまりでどこで終わりであるのか、そして次がいつはじまるのかを学んだように思います。

何万年も何千年も前から同じサイクルを稲と共に過ごしてきたと思えば、土や水といのちをつないできた私たちであることが善く分かります。自分たちの一年一年をしっかり生き抜くこと、それが翌年の実りに繋がっているのだということ。

一年一年を大切に生き抜くことでこの今があること、稲と共に育っていくと何を哀しみ、何に歓び、何に楽しむのか、私たちがいのちと共に生きていくことの真の意味を感じるのです。この種を遺すことが私たちが自然から与えてもらった叡智なのかもしれません。

稲と種からさらなる真実を辿っていこうと思います。

信の行進

よくポジティブかネガティブかということを議論にする人がいます。

前向きな人か後ろ向きかということを話しているのですが、実際はこの話をすること自体がそもそも論外ではないかとも思うのです。前向きを意識しながらの後ろ向きや、後ろ向きを意識しながらの前向き論というのは、どちらも2極化されている世界の話でありどちらかに偏っていると言っているようなものなのです。

本来の考え方というのは、中庸というかバランスの中に存在します。そしてそれはどちらかといえば実践を行う中でしか認識できないところにあるのです。

例えば前向きさというのは、最期まで諦めないというものです。なぜなら、信じているから途中でやめたりしないのです。つまり、どんな結果になったとしてはそれは必ず善いことになるし善いことにすると遣り切っているから 前進し続けている状態でありいつも前向きということになります。

これを逆に途中で諦めてすぐにやめてしまうことは、最初から結果が気になって悪いことが起きると信じているのだから前に進むのをやめてしまうから後ろ向きということになるのです。

つまりは信じるということの実践を行うときは常に前向きであるということ。信じないという実践を行うときは後ろ向きだということになるのです。自分の実践を省みることが自分の心の状態がどうなっているのかを自覚できるのです。

心が信じるという実行ができて頭もそれを補佐していくことで、まさにそこが信の行進になり中庸であり、信じる世界で自分の運に従って確かな道を歩んでいるということになるのです。

よくポジティブかネガティブかと気にする前に、自分の心や眼差しが善いことになると信じているか、善いことにするまで諦めないと決心しているか、それを矢印を向けて実践しているときだけが信じているということになるのです。

信が弱い人はすぐに頭でっかちに考えて実行を怠るように思います。それは別に実行どうかではなく、今まさに信じていないからそういう世界に自分がしていると思った方がいいのです。

信じるというのは、誰かを見てや相手を見てなどとすることではなく、自分の人生を丸ごと信じるときの信じているでなければ信じていることにはなりません。日々に起きていることをすべて善いことにするという気持ちを大切にし行動することが何よりも信を伸ばすことにように思います。

天命に委ねながら、日々の人事の実践を尽くしていこうと思います。