日本人ともっとも馴染の深い文化の中に、「稲作」がある。
由来は柳田國男の調査で東南アジアから海の道を経て種と一緒に移動してきたという説もあるようですが、私も島々との神々との信仰の歴史を鑑みているときっとそうではないかと思います。
人はなぜ新しい場所を目指すのか、環境の変化にあわせて移動することも私たちの自然の行動だったのではないかとも思います。環境に順応していくことで、多くのいのちとともに新しい場所へと移動していく。
これは今も昔も変わらないものであろうとも思うのです。
自然を征服しようとするものは、狩のように獲物を追って移動していきます。
また自然と共生しようとするものは、農をしながら友人の生きものと共に移動します。
私たちの祖先や祖霊が八百万の神々と呼び周囲を活かそうとするのは、伝説を通じてどんな環境の中でも共に助け合っていきようとしてきた子々孫々への智慧の伝授なのかもしれません。
そして稲は、私たちの移動の中心になっていた作物です。これは私たちが水の傍に住んでいて、稲と共に暮らしの場所を移動してきたからだと思うのです。一年を通して食べられるもの、一年を通して生きていけるということは今も昔もそれによってあったということを忘れない大切な行事です。
食文化というのも、食のことではなく、もともと文化そのものという意味なのでしょう。
それに漢字の「年」は、元々は「秊」(禾 / 千)と表記された字で、部首に「禾」が入っている点からも解るように、稲を栽培する周期を1年に見立てていたようです。
私たちは一年を稲を中心に見立てていたからこそ、88の手間暇をかけて育てていきながらその年の見通しをもったのかもしれません。一年間かけて稲の観察をしてきましたが、いつがはじまりでどこで終わりであるのか、そして次がいつはじまるのかを学んだように思います。
何万年も何千年も前から同じサイクルを稲と共に過ごしてきたと思えば、土や水といのちをつないできた私たちであることが善く分かります。自分たちの一年一年をしっかり生き抜くこと、それが翌年の実りに繋がっているのだということ。
一年一年を大切に生き抜くことでこの今があること、稲と共に育っていくと何を哀しみ、何に歓び、何に楽しむのか、私たちがいのちと共に生きていくことの真の意味を感じるのです。この種を遺すことが私たちが自然から与えてもらった叡智なのかもしれません。
稲と種からさらなる真実を辿っていこうと思います。