人は何かの判断をするとき、そこまでしてまでもやりたいのかというのがある。
子どもを観ていたら、やりたいことをできなかったとき、それを大人に抑制されたとき、反発してきます。自分がやりたいと思うことは、それが必用だからやりたいのであり別に意味もなく反発するのではなくそれが大切なことだからやりたいのです。
そこまでしてでもというのは、本当にやりたいかを自問することに繋がっています。
そしてそれを実現するのに、遣り切るというものがあるのです。
昨日、ある園での情報交換の中で楽しいのは遣り切っているからではないかという話をしました。好きというのは、そこまでしてでも好きかということ、そして遣り切っているというのはそこまでしてでも大切なことだと感じたからというものがあるのです。
自分が自分を好きになるのは、自分が好きなことを遣り切るからです。
そして自分が楽しいと思えるのは、自分やりたいことを遣り切っているからだと思うのです。自分自身を尊重したり認めるというのは、やりたいことをやりきるときに感じるのだと思います。
自分が分からなくなるのもまた、この自分を抑制して我慢をさせているからだとも思います。
本来は、教育は社会の中で自立できるように導き育てることなのでしょうが実際は社会に適合させるための人を目指しているようなものになっています。
それでは社会の中での自立ではなく、社会の中での依存や孤立を生み出してしまいます。
自由と自律、自立や共生というものは、自分が好きなことをやっていい、そしてやりたいことは遣り切っていいと認め合う環境の中で醸成していくものだと感じます。そしてそれが全体にとって正しくあるように原理原則や法理などを指導配慮していくように思います。
遣り切った分だけ、自分のことが知覚できるように思います。
本当は何なのかも、そのプロセスで実感できるように思います。
人生は常に遣り切った者価値です。
これからの子ども達のためにも、そこまでしてでもの覚悟の学びを高めていこうと思います。