分からないものを理解するのには行動していくしかないと思います。
人の苦労の共感でも然り、相手のためにと思えば自分が体験するのが一番です。自分が相手だと思えるようになってくると、自分が無意識に相手と同じような体験をしてくことができるものです。
万人のために生きるというのも世の中のために貢献するというのも、気が付けば目の前にいる相手が自分に思えてくるから不思議です。その不思議さの中には繋がりの中にある自分、いのちは一つで相手と分かれていない自分があるのです。
主観や自我がだんだん至誠や真心によって薄くなっていると、そういう感覚はよく起きてきます。そしてそういうとき、相手のことだと思っていたことがすべて自分のことだと思えるようになるのだと思います。
子どものためと思えば、大人や子どもと分けるのではなく、自分が子どもだったらどういう大人がいいだろうかと考え抜いていると自然に子どものための大人になっているものです。子どもから考えるというものも、もしも自分が子どもだったらと考えると同じことだからです。
そして全てのことは行動しなければなりません。
行動しているというのは、実際にそれを体験し実験するということです。
松下幸之助さんの言葉にこういうものが残っています。
「塩の辛さ、砂糖の甘さは学問では理解できない。だが、なめてみればすぐわかる。」
このように、実際の体験をしてみなければわかるはずがないのです。勇気というものは相手のためを思うとき、自らのことは構わずに困難に突進していくことができるようなものです。そして思いやりをもっていれば次第に相手のために自分がその困難を共にしようという気持ちになっていくものです。
人は思いやり相手を自分と思うときにこそ、行動が伴っているのだと思います。
日々は貢献によって自分を活かせていけます。
ひとつひとつの行動の意味を味わっていきながら真の学問を深めていこうと思います。