よく競うことがよいのかよくないのかという議論があります。
学校などでは常に競争するような環境があり、テストの点数や運動会の競技などでも互いに切磋琢磨のためにと競争させます。社会に出ても常に成績や結果などを確かめてすぐに競い比べようとします。
そもそもの基準がなにを競っているのか、何を比べているのかがあるのです。
知識の理解度を比べたり、身長を比べたり、早い遅いを競ったり、良い子悪い子を比べたり、能力を競ったりと、比べたり競ったりを何かの基準を設けて取り組ませているのです。
その誰かのモノサシによってできるできない、善い悪いを平均と比べてどうだったか、またみんなと競ってどうかというものを感じているのです。競ったり、比べたりというものは、誰の何の基準でそれをやっているのかで感じるものも異なるということです。
つまり誰かのモノサシで競争も比較もされているのです。
それを無理に押し付けられることは自分が尊重されていない気がして辛くなるものです。
例えば、誰かと競い比較してしまえば劣等感というものが生まれます。自分が勝った負けたで他人と自分を比べて競争するのですがこのモチベーションは分かりやすいものですがこの基準やモノサシは自分の外にあります。しかしこれが自分自身と競い比較するのは、以前の自分と比べて善くなったということや、成長したことなど確認することができます。
比較するかしないか競争するかしないかではなく、何のためにするかということなのです。
今の社会もそうですが、他と比べて競うことの基準がどうなっているかはその都度の自分のモノサシを観る事で理解していくことはできます。 誰かのモノサシに合わせるのではなく、それを自分のモノサシに再設定するという方法もあるのです。
常に出来事はたくさんのモノサシがあっていいしそれが社会に出てからの生きる力になるのです。自分も何でも機会を活かして試したいと思うのは、モノサシさえ変えれば色々な観方があるのを知っていてそれを楽しむことができるからです。 この自分のモノサシを増やしていくことが人生をより充実したものにしていくように思います。
しかし、実際の人生には競えないものや比べないものもたくさんあります。
思いやりや優しさ、幸せや満足感、遣り甲斐や生き甲斐などもともと比べようもないもの、競う必要のないものの大切さは生きていく上で何よりも学ぶ価値があるように思えるのです。
私は学校では学力や体力など比べ競うことが優先されていますが、もっと大切なことがあるのではないか、そういうことを昔は分かち合う時間がゆっくりあったのではないかと思えるのです。
あえて競わない比べないところに焦点を当て、その豊かさや幸せ、思いやりを味わうことは自分らしく生きていくことの大切さ、そして自分そのもののモノサシを持つことを教え導くように思います。
子ども達には自分のモノサシを持てる自信がある生き方を選んでいってほしいと思います。