心命の気づき

仕事に取り組むときに、これは業務なのか、それとも役割なのかというものがあります。

言われたことを単にやることが仕事ということになると、その仕事は単なる業務になってしまいます。仕事は言われてから考えるという癖を持ってしまうと、そもそもその仕事は何なのかということも考えずに動けるようになってしまいます。

本来は、どの仕事もそうですが目的や使命があり発生しているものです。

例えば、お店の料理なども上の人から指示がきて作業とするのと、本来何のために料理をするのかではその工夫もそうですが智慧もそして真心も籠っていくのです。つい忙しいとか言い訳をしますが、忙しいからではなく、心を使わないと言っているだけで別に作業がいっぱいというわけではないのです。

つまり作業量のことよりも、心を今は使えないと言っているのですが本来は心を使えば逆に作業量は特に影響もないはずなのです。心と使わないというのは、いのちを使わないということでそうなるから無機質な感じがするのです。

これを例えると、作物でいえば結果だけを求めて肥料農薬で一気につくったものと、自然の中で真心で手間ひまかけて育ったものとの違いに似ています。

業務が増えた時は本来は一度、そこから離れて何のためにやるのかと見失った本質を考える機会にするのもいいし、急がない焦らない面倒なことから丁寧に行うとし離れそうな心を呼び戻すのも一つの方法論であろうと思います。

しかし実際は、仕事は常に役割という捉え方にすればいいように思います。

ちょっと極端からも知れませんが、私たちはそもそも大きな天からの使命を与えられています。つまりはお役目というものがあってこの世に生まれてきていると言います。かの教育者、森信三にも「人はこの世に生まれた瞬間、全員が天から封書をもらって生まれてくる。その封書を開いたら、あなたはこういう生き方をしなさいと書いてある。しかし、せっかく天からもらった封書を一回も開かないまま死んでいく人が多い。」とあるように、その役割に気づけるかどうかというのは大変重要であるのです。

一度しかない人生を自分の人生を大切なお役目を果たそうとして生きるのか、そうでないのかは自己実現という人生の大義に関係してくるものです。

つまり生き方として、生まれてきた以上お役目を果たしたい、みんなのためにも自分を活かしたい、貢献していくことで役割を担いたいと思えば、すべての出来事は「している」ではなく「させていただく」ということに転換されるのです。

自分がさせていただけるのならとしていく生き方は、みんなから頼まれ任され信じられる方を優先した方になります。そしてみんなからの頼まれごとをちゃんと丁寧に誠を尽くしてやっていけば次第に自分が活かせる本当の場所に出逢うようにも思うのです。

自分がどうしていいか分からないのであればなおさら、頼まれごとを引き受けていくこと、もしくは役割を貰うこと、自分がさせてもらえることに歓びを感じる方へと自分を運ぶようにしていくことがその封書の内容に気づけるように思うのです。

自分が何を求めているのか、そして何を求められているのか、常にその前に天を戴くことが大切であるように思います。自分のご縁を辿りながら、どのようなことをさせていただけるのか、思えば思うほどに有難いことだと実感します。

子ども達のためにも、まずは真心の生き方ができるような自分を磨いていこうと思います。日々に心の方を優先していくように歩んでいきたいと思います。