ドイツ研修の2日目を迎えました。
昨年参加した時とは異なり、ふり返りを中心に発見することでより身近な共通点や足許にある発見まで見通すことができます。
今年も昨年と同じく、視察を終了してミュンヘンの市内まで行きその場で降りて歩き方や電車の乗り方、買い物の仕方、場所などを藤森先生からレクチャーがありました。
思ってみれば、全てが研修であり研修と観光が分かれていないと思えばこれも見守るを理解するための大切なプロセスであると気づくのです。
老子の言葉に、「授人以魚 不如授人以漁」というものがあります。
これは「人に魚を与えれば一日で食べてしまうが、釣りを教えれば一生食べていける」という意味に訳されますが、答えを与える教育ではなく、そこに辿りつける方法へ導くというのが自立のプロセスには大切なことであろうとも思うのです。
私は特に一緒に学びをいただけるなかでそれを実感することが多かったように思います。だからいつまでも同行が楽しく、幸せを感じるのです。
信じるということからはじまっていれば、自立とはその人が自ら辿っていけるよう導くことがここでの教えるということになるものなのでしょう。
今回はふり返りを通してこのようなことも観えてきましたが、昨年まではそのような見え方はしませんでした。ふり返りというものは自分のことを見通せる大切な機会だと気づけます。自分の問題意識がどこにあるのかを知ることは、自分自身を知ることにつながるからです。
つまりは自分のものの見方がどうなっているのかを内省することこそふり返りです。
このフリータイムも、自分たちで協力して体験を通して学ぶ見守るの実践の一つです。
また、夜の情報交換会では使っている言葉についての話がありました。ドイツでの母国語の指導などの視察を通して如何に正しい言語を使っているかという話がありました。
その際、言葉を正しく使っていないことのたとえで2012年10月12日臥竜塾ブログにて紹介があったような話がありました。使っている言葉が本来の意味と異なっているということについて書かれていますが、参加者からもそれを直していこうとありましたが私はさらに考えてみました。
国語力というのは何なのかといえば、その国の言葉の力というようなものだとも私は思います。それはその国の言葉にしていくというのは、つまりはその国民の生き方そのものが言葉になるという意味です。
国語を正しく教えるというのは、大前提として教える側の生き方の影響を大きく受けるということになるのです。母国語もそうですが、本来は今のように言葉の解釈が歪んで教えられるようになるのは自分自身がその母国語に添った生き方ではないからです。
本来の古来の言葉は、その生き方を格言にしたりそのものが言葉に成り代わったともいえます。それを理解するには、言葉を単に暗記すればいいのではなくその本質通りに使っているか、つまりは本質のままに生き方を正しているのかということになるように思うのです。
国語力の低下というものは、国民力の低下とつながっているのはそもそもの言葉を発する側に問題があるわけです。自分を正すことで母国語を正そうとすることに気づける人たちがどれだけいるかわかりませんが、やはり自国の文化伝統、そして自分たちの生きざま、歴史などまず自分に立ち返って取り組もうとするのが本質であろうと思います。
同じものを聞いても、同じことが聴けるわけではありません。
もっと正しく聴くために、自分自身の聴く側の姿勢を振り返りたいと思います。