ドイツ研修3日目 味嗅曜日

ドイツ研修3日目を迎えました。

昨年の視察では観えなかったものをたくさん今回の研修で発見しています。

昨日は、こちらの教育局の方々が招待してくださった会食に御伴させていただくことになりました。まず藤森先生が、こういうご縁を大事にしながらはじめて続けられてる国際交流とドイツ研修であることを知り改めて頭が下がる思いがしました。当たり前に続けていますが、この当たり前に観えることこそ本当は大変難しいことがあることに気づくのです。

お互いの違いを越えて認め合うというのは、大前提としての決心や信念があってこそのように思います。日本でもドイツでも、変わらず自分の真心を貫く姿に周囲が支援してくださるのを感じます。今回はこの10年で取り組んでさまざまに実ってきたものを関係の中で味わうことができ、改めて存在というものの感謝を実感しました。

また会食での話ではドイツでの制度事情、少子化のこと、今の経済状況から昨年の構造改革の話までどれも日本での課題とよく似たことが発生していることに共感を覚えつつ、同時に違和感を感じていました。

以前、ブログでも書きましたがそもそも子どものためとは何かということはその人の持つ定義が異なれば同じ「子どものため」といっても意味はまったく異なります。例えば、少子化によって保育園をたくさん作ることも残業に対して預かりの時間を増やしていくこともそうだし、幼保一体化などもそうですが、どれも話を聴いていたらそれが本当に子どものためになるのだろうかと思えることも沢山あります。

子どものためというのなら、子どもの人格を丸ごと認めることからのように思います。これは見守る三省の中で、はっきりと理念が出ていますが何が子どものためかということなのです。

常に本質的に何を優先するかということになりますが、そこには変えてはならないものと変えなければならないものをその時代に嗅ぎ分けることができなければならないように思います。短絡的に、目先にある経済を追いかけていたら本当に大切なものまで見失ってしまうかもしれません。

日本、ドイツに関わらずこれは世界でも言えることですが子どものためとは何かという本質を出発点にして常に事物は議論する必要があると私は思います。

世界で議論をするには、自国でもそれを貫き実践しカタチにしていかなければなりません。GTをはじめ、自社の実践実行の尊さを改めて感じてその課題もまた持ち帰ろうと思います。

最後に、昨日は中庸についての話をお聴きすることもできました。

今の時代は、何かにつけて極端な議論ばかりが横行しています。何かにつけて話があるときは、良いか悪いか、やるかやらないか、できるかできないかなどとまずはすぐにどちらかに分けてから認識しようとします。

例えば苦しみの中に楽しみがあるというように本来は楽か苦かではなくそのものが渾然一体と混じりあった中庸にこそ本来の味わい深いものがあるように私は思います。

これは自然を味わっていくと分かれていない所に真の趣があることを憶えるのと似ています。もっと自然を観察するときのような審美眼や深い味を楽しむような上質な味覚を磨き、本来の姿、誰かに教えられる前のあるがままの姿、その心で出来事を考え抜いていく力を育てていく必要があるように思いました。

今のように情報が錯そうする時代は、何よりも自分の感覚を磨くことが重要なのかもしれません。ドイツにいても、日本にいても、大切なのは実践している中で本物の嗅ぎ分けるセンスが役に立つようです。