昨日、新宿にある鎮守の熊野神社に旅の無事を御礼に参拝してきました。
いつもながらの御蔭に援けられていることに有難い思いになります。
私たちは何気なく暮らしを営みますが、その営みの蔭にはたくさんの恩恵があります。
その一つ一つが私たちを活かし導きそして助けてくれています。
そういうものを心は観えているはずですがそれを放置しないようにすることも道の実践です。
学問をしていくというのは、心と頭、理想を現実を合致させていくことで顕現していくものです。
常に意識の中を心と頭の両面で捉えていくことができるようになることかもしれません。
またせかせかとした時を速めた窮屈な情報優先の世界に戻っても、全体を見渡し心穏やかに坦蕩蕩と歩んでいけるように祈りや実践を怠らないでいきたいと願いました。
さて、その熊野神社の掲示板に真木和泉の言葉が紹介されていました。
その歌にはこうあります。
「天も誠にて天たり 地も誠にて地なり」
私の意訳ですが、天も真心のままだから天であり、地も真心のままだから地である。という意味で、だからこそ人も天地と同じ真心の人でなければならないという言葉が続くという意味であろうと思います。
つまりは天地人とは自然との一体感、その真心のままでいるということかもしれません。
この真木和泉は、福岡県久留米にある出身で私の故郷とも近いところで生まれています。
水天宮という神社の神官でもあり、志士として大義に生きた人物です。
最期は、長州藩と合流し久坂玄瑞らと共に禁門の変で戦い天王山で自刃して果てています。
楠木正成を崇拝していて、今楠公と呼ばれていたほどだったとも言います。
大義というものを貫き、命を惜しまずに正しきかどうかで覚悟して決断するというのが志士の生きざまのように思います。私たちの先祖は大和魂のままに生きいつも心にはお天道様が観ているのだからと天に恥じないように生きるよう幼いときから習ってきたのでしょう。
今の時代は、私たちの大切に受け継いできた大和魂も錆びた道具のように使わなければ古びていくものです。何度も磨いてその刀がさび付かないようによく手入れし、また鍛錬陶冶していくことが大切であるように思います。
私たちがもともと天地に貫いてきた生き方が大和魂として語り継がれて今に至ります。
私たちの血や肉には、先祖たちが脈々と遺してきた意志があるようにも思うのです。
大和魂は、自然の命じる魂であるとかんならがの道の実践から感じます。
最後にこの真木和泉の辞世の句を紹介します。
「大山の峰の岩根に埋めにけり わが年月の大和魂」
いつの時代でも大和魂の痕跡が、私たちの未来を見守り続けてくださっています。
またいつもの日々ですが、怠らずに天地自然の道、その大和魂を磨いていきたいと思います。