同時

感情を調和していく中に、感動するというものがあります。この時の感動には、御互いに同時に感じることができるという感覚があるように思います。

例えば、何かを与えるときそれを受け取る方も同時に何かを交換します。一見、何かを渡す方は失うのですが同時に得ているものがあり、何かを受け取る方も得るのですが同時にさらに得ているものがあるのです。それが感謝です。

この感謝というものは、与える側も受け取る側も同時に得ることができるものであろうと思います。そしてそれはお互いに心を通わせあい味わうことでより鮮明に得ることができるように思います。

他にも信じるというと任せるというものも信じる側と任された側の信頼関係を同時に交わすのです。

つまりは、私の言う同時というものはバランスのことでもっともお互いが同じパワーバランスでいることも同時なのです。どちらかだけが行うものではお互いのバランスは調和しません。

先日もある会議の中で、司会進行と聴く側の力が同時でないとその力は発揮されないという話もしました。これは複雑系の中でも話がされる、調和の力、同時のことを言うのだと私は信じています。

みんなの力を合わせるのに「せーの」という掛け声もありますが、あれこそが全体の集合智、つまりバランス感覚であるように思います。

自分から主体的に相手の問題意識に合わせていくことや、自発的に自分の持てる力を存分に発揮していくことが同時を引き出していくように思います。相手を見て自分の力のさじ加減をしたり、遣り切っておらずにできそうなところをやっているのではお互いに交わし合いや通じ合いというのは起きません。

相手もきっと大変なのだろうからと思いやり、人事を尽くすとき同時は調和するように思います。力を合わせることも日々の鍛練と訓練のように思います。学びを体験に換えて子ども達に還元していきたいと思います。

自生自足

自宅の庭には様々な野草が自生しています。

その中に野菜のニラもあるのですが、今年はその種どりを行いました。

昨年からコメや大豆、麦を育てているのですがなぜこれらをパートナーにするかというと種がたくさん採れるからであろうと思います。種そのものを食べることができ、なおかつ種そのものになっているということから保存にもよくまた育成するにも善いからであろうと思います。

まず生き延びることや生き残ることを中心に物事を考えていくというのはシンプルなことです。

今は生きること以外にもたくさんのことを考えて悩まなければならなくなっています。複雑に分かれたものをいちいち思想で掘り下げてその溝を埋めて、また広がるのをまた改めてと常に何かで発生することを本質へと帰すようなことを続けていく必要が生まれています。

以前、震災の時にあまりにも全てが止まると一体何をしていたのだろうかと我に帰るときがありました。そういう時こそ、自分が何をしようとしているのか、何をしたかったのか、その本質に正対するのです。

そうでもしないと今は一体どうなっているのかが分からないのかもしれません。

周囲を信頼して生きていくことも、生き延びるために食べていくことも、また天を畏れ徳性を尊び学ぶということも、とても素朴でシンプルな問いだからこそ発見しずらくなっているのでしょう。

余計なことをしなくても、どんな周囲と一緒に生きていくかを大切にしていけば自ずとそれぞれの生がそれぞれのままに足りていくのかもしれません。

種どりをしながら、四季のめぐりとともに共生してきた先祖代々の歴史を感じます。

子ども達に受け継いでいく真心として、もっとよく周りを観て、思いやりを感じ、御互いに少し手伝いつつ自生自足を歩んでいきたいと思います。

自然遊び

先日から民芸に意識を合わせていたら玖珠の童話館との縁があり、昭和の初めに版画雑誌『白と黒』を主宰した料治熊太の作品展を拝見する機会があった。

そこには版画だけではなく、数々の世界の民芸品や玩具が展示されていて素朴さという意味を深めるのに大変な参考になりました。

それに、次回訪問予定の日本民芸館に繋がる面白い情報もたくさん入手し動いてみるといろいろと気づくことがあり心はいつもそういうものを捉えていると実感できる学びになりました。

この料治熊太という人は、版画誌の育成発行や郷土玩具の収集と研究などで功績を持つとともに棟方志功や谷中安規などとも関わりが深い方です。

一見、失われていくとも思える美に一石を投じてそこから新しい美を育成していくというようなその観点を感じることができました、特に郷土玩具では、あまりにも大量な玩具の量に圧巻でしたしその個性や美しさ、その素朴なものにどのように子どもの遊び心が動いたのかを観察しました。

私にとっては、今の時代のように複雑な情報が飛び交う中で豊富に溢れたものを追っていくような表面上な遊びよりも、まるで林の中で冒険するときのような、また浜辺で砂遊びをするような感性を呼び覚ます美に観えました。

遊びといっても、何か脳を刺激するものではなく、心が遊ぶようなものはとてもシンプルで素朴なものの中に存在するように思います。脳が行う情報遊びではなく、心が行う自然遊びであるのではないかと実感しました。

価値のあるものというものは、人間が設定したものと、もともと価値のあるものという見方があります。かんながらの道でもそうですが、そのものの価値というものは一見大変素朴すぎて美を感じることもできないような偉大なものの中にあるように思います。

それが葉っぱ一枚であったり、松ぼっくりのカタチであったり、どんぐりでも、花でもそうですが自然が何よりも美しい証拠を表現しているからです。簡素でシンプルな美とは、私にとっては自然美のことです。

白と黒というものも、美を真ん中に据えているときに実感できる無限色であろうと私は思います。自分を磨くのは自然、常に自然と遊んで新たな境地を自明していきたいと思います。

自問自答

プライドについて考える機会があった。

よくプライドというものは、あの人はプライドが高いとか、あのプライドが邪魔をしてとか悪く使われることもありますが、他にも、あの人のプライドがかっこいいとか、自分にプライドを持っている人だからとか、それが善く使われることもあります。

このプライドとは、外向きのものと内向きのものがあると思うのです。

外向きというのは、外側へ対しての体面や体裁、自分がどう思われておきたいかといった外側に対する虚栄心から自分を頑なに守ろうとするときに使われます。自分が周りから思われたい自分像から異なるのを頑なに拒み他人のいうことを素直に聴かなくなっていくのです。これは世間で使われる良い意味ではない方のプライドで、それが高いとか鼻につくというのはそう思われたいという自分の欲から生まれます。

そしてそれはいつも誰かと比べる自分というものがその発想の根元にあるということです。

もう一つに内向きのものがあり、これは自分が決めたことへの揺るがない誇りや、内省によってこんな自分は嫌だと決めた生き方、つまり自分で決めた自分のハードルは下げないというときに使われるものです。これは常に自分に矢印の生き方を貫くことをいい、素直に他人の助言やアドバイスを聴き容れ、自分の間違いは正していこうと自分自らが厳しくチェックすることを優先するのです。これはとても素直で直向な人のことをいい、そういう人の生き方見ていたら大変清々しい気持ちになり、そしてその人の成長が自分のように嬉しく思えるのです。

つまりこのプライドは、周りから見られて自分でねつ造した都合のよい自分像を守るために使う人と、自分の中で決めた自分像を守るために信念を持って自分と正対するときに使う人がいるのです。

プライドが高い人は、すぐに自分を守るために嘘をついたり説明をしたりと本当の自分をさらけ出そうとしません。そしてそれは、単に自問が不足していて自分で自分のことを決めないからであろうと思います。

これからどんな生き方をすると決めたか、自分が大事にしているものは何か、そういうものを自分から先に大切にすること、それが自信になり信頼を広げていくことができるのです。

表面上の仲良しよりも、まず一番身近な自分と仲良しになる方が大切なのです。だからこそ、自分が先に決めること、そしてそれは誰のせいにも何かのせいにもせずにまず自ら決めたことに誠実であること、それを常に死守することがプライドを正しく転換していく方法であると私は思います。

周りを見過ぎるのは自信がないからですが、自信とは自分で決めてそれを遣り切ることで自分が好きになるから信じることができるのでしょう。もっと大事なことは自問自答するということを大切にしていくことを子どもたちに示していきたいと思います。

今を探し求める

古き善きものの理解ということで、温故知新がありますがこれをドイツではロマンティックであると定義していました。

今の日本では明治維新後から、新しいものが良いものであるという価値観が一般的に横行しています。今でも新商品となればすぐに飛びつき、さもそれが目新しければ取りいれるという考え方に溢れているように思います。

どのTVCMも派手なものや珍しいものばかりを取り上げようとしているのもそういう大衆の方が多いということを意味しています。そしてその反対に古いものは価値がないとさえ思われ、もともと先祖たちが遺してきた様々な美意識も今では衰退して陰りをみせています。

私は自然農をはじめ、自然から学びだしてから何が最先端なのかの価値観が逆転しました。

昔は見向きもしなかった道具であったり、家づくりであったり、様々な民芸品、その全てが大変な自然の観察から練り上げたものであるのを実感するからです。なぜ何百年も残っているのか、なぜ今でもそれが本物である輝きを秘めているのかはそれが自然の法則にそって創造されたものであるからです。

本物というのはいつの時代も、余計なものがそぎ落とされ究め尽くした頂点であるからです。

そこからいろいろなものを足していく方が良いはずだという価値観というものは、例えば円い玉に派手な飾りものをしてさも宝石のように見せるかに似ていて宝石そのものではない価値で無理にそれを良く見せるのに似ています。

付加価値というのは大切ですが、本来の価値が観えるというのはもっと大切であると私は思うのです。いつの時代もなぜ本質的な価値を遺しておく必要があるかといえば、それが時代時代にあわせて参考になるからです。

どんな時代も、どこに合わせて修正するのか、どこを視て少しだけ改善するのか、その元となるものを引き継ぐことこそ先祖の遺訓を守ることのように思うのです。

大切なのは新しいか古いかではなく、本物の善きものとは何かという審美眼、言い換えれば真善美が正しく行われることだろうと私には思えるのです。それがどの国の歴史であっても必ずそれを求めて生きた証として様々なものを受け継いでいくことが今を正しく実現することのように思うからです。

真善美というものを理解するには、古きを温め、新しきを知るという両面から錬磨育成していかなければならないと私は思います。一見、矛盾している中にこそその本質を捉える自分の感性が響いてきます。

私の今、もっとも探し求めているものはこの「今」なのだろうと感じます。

さらに直観を高めて、子ども達に遺せるもののを自然から創意工夫し発明していこうと思います。

引き算の美学

先日、ミッションパートナーとブランディングについての話を深める機会があった。

ものづくりというのは、とても神秘的なものでそのものに自らの生き方を透写し、それを一緒に善い作品へと転換していくという面白さがあるのです。それぞれの生き方を照らしあわせたとき、その奇跡とも言える総合芸術ができるかのようです。

人はそれぞれの持ち味を活かすとき、今までにないような不思議な味わいを醸し出します。
これは発酵でも同じですが、大切なのはやはり自分らしさを出すということなのです。

そしてこの自分らしさは、自分に正直、全てに正直、あるがままの心が澄まされオープンでいることがその曇らない飾らない素直さを発揮させていくように思います。

そしてそこにはシンプルというデザインがあります。私が好きなデザインも、光がわかるよう白と黒が基調だったり、そのものがより本質に近いものや、その作り手の人生観がにじみ出ているようなものにとても惹かれます。そしてそれはやはりシンプルなもので、余計なものをどれだけそぎ落としたかというものを観るのです。

世界には、そうやってありのままに観える人がありのままにつくったものが無数にあります。そういうものを探し、それを日本のカタチに転換することで私たちのものにしていくことができるように思うのです。

ないものを探そうとするのは、まだ曇っているからで本当はすべてはこの世に存在していてそれを目が曇るから見いだせないという発想。つまりは物事はすべて足し算で考えるのではなく、引き算で考えればないものねだりではなく在るもの探しに変わるのです。

これはデザインやものづくりに関わらず、大前提としてものを創る前にその美学がどうなっているかが問われるように思うのです。日本には、千利休や松尾芭蕉、その他にも「わび」「さび」「しおり」といった日本を代表する引き算の美があります。

私もそれを感じた時、本当はないのではなくあるのではないか、そして足りないのではなく活かせないのではないか、すべては自分の中にあるものを発掘できていないのではないかと、自らにおける制限を感じたのです。

自分が自分に制限をかけるから、人は限界を超えないという言葉があります。
みんな人が変化できないのは何かに縛られ囚われる刷り込みがあるからです。

そういうひとつひとつを引き出し、導くことも使命であるように感じます。
子ども達のためにも、自分らしさを持ち味をさらけ出せるような生き方を目指そうと思います。

自らの文化創造

ドイツ研修のふり返りの中で気づいていくものに歴史というものがあります。

その国の歩み方や進み方の中に、過去の経験が活きていてそれがものづくりに活かされたり、生活の智慧になったり、そして思想や性格などになるのです。

例えば日本も昔からたくさんの建造物をつくりあげてきましたし、他国でも創造してきました。その延長に料理というものがあったり、商品があったりと、その国々で究められ生み出された美があるのです。

そして世界では、それぞれの美意識をそれぞれの生き方に取り込んでその国で生まれた精神やその中で練り上げられた心を学び自らの生の質を高めてきたのだと思います。日本製というものが精巧で精密、正確であるのもそういう日本の美学が生きているからでこれはスイスでもドイツでも言えることです。

お互いの文化を味わっていくというものは、どのように自分の国の「ものにした」かということの歴史を感じるとも言えます。

私たちの先祖では、かの空海もただ中国へ留学するのではなくそれを日本のものへ呑み込んで私たちの生活に新しい文化が生まれました。その広さは、料理だけではなく建築、土木、治水、広げてみると大変なものです。その後も、明治維新のときは西洋諸国の数々の文化を呑み込み新しい日本のカタチを模索して取り込みました。この時は急ぎ過ぎたのか、そのまま取り入れたものが今の時代の弊害にもなっています。

正しく取り入れるためには、全てのものを自分で咀嚼する力が備わっていなければなりません。それはよく日本文化に精通し、自らが日本という生き方をしそれを体現し一つの高みまで昇華させた人でないと難しいように思います。

そのためには、自分がどうしたいのか、自分の本当の目的が何か、それを問い続けて自らの文化創造から取り組んでいなければ難しいのではないかと思うからです。

お互いに善いものを取りいれるというのはあっちがいいやこっちがいいではなく、そこに大変な謙虚さや素直さが必要だと思えます。それは本物を見分ける力が働いているように思います。いろいろな環境の中でいろいろな人がいるから人は学んでいくのでしょう。

自分が何をしたいのか、そこから考え直してふり返っていこうと思います。

ものづくりの美学

ドイツのものづくりの心についてここ数日間はずっとインスピレーションに満ちています。
このドイツの美学ともいえるものづくりの心とは何かについて感じるのです。

もともと「美学」という言葉は、ドイツの哲学者アレクサンダー・バウムガルテンが1750年に『美学』 (Aesthetica) を出版したことが、美学が哲学の一領域として定式化される一つの契機になったとされています。

先日のドイツ視察でもそうですが要所にその土地の中で感じたものの中に、この美学というものを大切にしたものづくりにおける文化が根付いているように思うのです。

もともと美学というものは、私の解釈ですが生き方を昇華したものという定義があります。

その人がどのような生き方をするかにその人の美学というものがあり、自分というものへの誇りと理念に対する忠義、正しいことへの信念と言葉を並べればいろいろとありますがつまりその人そのものの表現であろうと思うのです。

どのようなものを生み出すかというものは、その人のセンスによります。
そのセンスとは、その人の生き方や在り方がカタチになって顕われてくるものです。

なのでいい加減なものをつくらない、その人自身だからこそものづくりには美学があるのです。

例えば、エジソンであればあの不撓不屈の信念が発明というものづくりの生き方を顕し、本田宗一郎でいえば大好きなものに夢中になったというものづくりの生き方を顕しています。

つまり、ものづくりではなく、その人そのものの生き方がその「もの」に顕われ出でてくる。その人生の問いがものになっているのです。

ドイツという国の大切にしているのは、その根底にあるドイツの哲学、そして美学のように思います。私たち日本でも、どんな状況になったとしても美学を貫いている美しい人たちがまだたくさんこの国の端々に残っています。

大量生産大量消費というものづくりの生き方もありますが、昨日のブログで書いたように簡素な物、シンプルなもの、つまりはよく生き方が練り上げられたものが世の中をよくしていくというようなものづくりの心もあるのです。

私自身、姿勢を正し、自分の生き方が顕われるということを肝に銘じてどのようなものにも美学を持ち、子ども達のために取り組んでいこうと思います。

 

古き善きものの心~美学~

先日、表参道にある無印良品社理念の発信店、「FOUND MUJI」にいったときに、そこで紹介されていたドイツのMANUFACTUM社のスコップを購入しました。

不思議なご縁で、先日からドイツをふり返っているからドイツ製のものばかりがまだ気になっています。人の意識というものは、心に何を置くかで拾ってくるものや集まってくるものが変わってきます。どんな問いを日々に心に持つのかで人はすべての情報を取捨選択したり収集したりすることが可能になるのです。

持ち続けるというのは、一つのことを念じ続けるとも言います。どんな目標や夢を念じ続けるかでその人生というものは大きく変わっていくのです。人生の夢というものは、そうしたいとそれをやりたいと思って積み重ねて行動し体験した量で決まるように思います。

さて、ドイツのそのスコップですがとても本質的に制作されていることが使ってみるとよく分かります。つまり使うと感じるのは何のためにそのスコップを使うのかを明確に定義し余計な機能はそぎ落としたり、また大事なところは強くし、人にも周囲にも優しい設計であるのが観えるからです。つまりシンプルです。シンプルなものというものは、よく精査洗練されていて本当は何かというものが考え抜かれているからです。

そしてなぜドイツではこのような道具や物が生まれてくるのかということへの気づきが大切です。つまり、それは幼少期からどんなものに囲まれていたかというもので決まるのです。前回のドイツ研修の写真を眺めていたらその道具への精巧さだけではなく、意義やその意味、無駄なものがなく本質的によく考えられたものが子ども達の傍には置かれています。

歴史や文化にも、古き善きものをいつまでも大切にして活かそうというその思想が根付いていて善き製品を生み出しているともいえるのです。ものを大切にしていく人は、そのものがどうやったら長く活かせるかを考えます。つまりは自然です。自然でできたものがもっとも長く用いられることを知っているからです。

そしてこの自然というものは、心が自然から学んだものでありそれが国土や其処での暮らしの生き方になっているのです。

ドイツでは、子どもの頃からものを大切にすることを周囲の大人をはじめみんなが意識しているような環境があるからそういう道具が生まれるということです。ものを大切にするという理念は、ものが溢れるからこそ余計に大切にしていかなければなりません。

最後に、その「FAUND MUJI」の白い壁面にその理念が小さく書かれていたので紹介します。

「簡素が豪華に引け目を感ずることなく、その 簡素の中に秘めた知性なり感性なりがむしろ誇りに思える世界、そういった価値体系を 世界に発信すれば、もっと少ない資源で豊さを謳歌できる」(田中一光)

ものが溢れる時代だからこその物を生み出す者としてのアンチテーゼとし敢えて果敢に挑戦しているという意味では、大きなインスピレーションを得ました。

今回のドイツの環境から気づき探り取ってきたものをこのスコップで掘り起し、日本の子ども達のためにこれらの視点を取り入れた環境づくりの実践をしていこうと思います。

楽しみ方

ドイツで持ち帰ったものにふり返りの楽しさというものがある。

現在もふり返りを続けていく中で、仕事を含め楽しみというものに3つの大きなものがあるのを感じます。これは旅の楽しみと同じようで、旅は行く前の楽しみ、最中の楽しみ、帰ってからの楽しみと3つあります。

そしてそれを全部楽しむとき、旅の醍醐味を感じて心は遊び旅を楽しみ続けていくのです。そしてその旅が、また次への旅へと誘い、人生がいつも旅によって味わえるという感動を連れてくるように思います。

そして同じように仕事にも楽しみというものがあります。

これは仕事に取り組む前の楽しみ、仕事中の楽しみ、そして仕事後の楽しみなのです。

仕事とはこうやって楽しいものにしていくのは自分の自主的な行動によって得られます。一生かけて取り組む仕事を楽しめるかどうかは、楽しんでいるように旅をするかに似ていて楽しんでいるように仕事ができるから仕事によりのめり込み集中し一体となりより自分から楽しんでいくことができるように思います。

この仕事の楽しみには具体的には3つあります。それは発見や発掘といった気づきの楽しみ、そして創造していく楽しみ、最後にふり返りによる改善の楽しみです。

仕事は全体を通して、色々な気づきを楽しめます。それは今まで気づかなかったことに気づけるということは発見する歓びで、人はオモシロイと感じるものはみんな新しいものを見出した時です。そして創造するという歓びというのは、カタチになっていく楽しみで今まで頭にあったものや漠然としたもの曖昧なものがどんどん顕われていくのはまるで家が建っていくようにオモシロイのです。カタチがどんどん増えていくから、全体が顕われそうしているともうすぐ自分たちの家が建つと思って希望にワクワクしていくからです。最後のふり返りの歓びですが、これはより自分が磨かれていく、上質になる、洗練されて善くなっていく喜びです。仕事がどんどん善くなってきたと感じることは、自分が本物に近づいてきたという歓びで未熟なものが成熟していくように次第に立派に成長していく実感を楽しむものです。

こうやって楽しみというものは、具体的な楽しむものにしていくことで得られます。

ドイツから持ち帰ったものにふり返りがありますが、楽しみ方にもいろいろとあるのだとふり返りをふり返り続ける事から得られています。人生はすべて学びなのだから、見落とさないよう、日々の発掘をより発掘し、日々の想像をより創造し、日々のふり返りでより改善するというのがまさに自分を空にして没頭していくことのように思います。

仕事の仕方というものがあるのなら、それは旅を楽しむように味わうことだと思います。

一番の危険は怠惰と惰性です。
慢心を恐れることは、今、ここへの集中力、即ち常に楽しむかということにあると思います。

日々の生活のなかで、好奇心と集中力を高めてより記憶と渾然一体になりたいと思います。