心が遊ぶ

ドイツから持ち帰った気づきの御土産に時めく写真の装飾というものがありました。

これは子ども達に限らず私たちが心が楽しい感じた体験を思い出しやすくしていくものです。一般的には記憶というものは、心が覚えているもので頭で暗記しているものとは異なります。頭で覚えているあれこれという事象よりも心は鮮明にその時の感覚を五感で記憶しています。

そしてこの心というものは、時間も超え場所も超え、垣根も超えて様々なところに行き来することができます。単に名前や記録しておくものと、感動したままに覚えておくものとは人は無意識に使い分けているのです。

以前、子ども心のことをブログでまとめましたがその一つの心に遊び心というものがあったと思います。

しかしこれは遊び心ではなく、「心が遊ぶ」という意味で私は定義しているのです。

つまり心が遊んでいるというものこそが私の言う時めきの本質であるのです。心はいつでも遊んでいますがその遊んでいる心が何を観ているか、何を感じたか、そういうものこそが生きていく上で積み重ねた無二の価値になっていくのです。

いのちも魂もそれを望んでいるように思います。だからこそ時を超えて心が遊んでいる瞬間をどれだけ多く身のまわりに在るかが大切なのです。

先日、ドイツで私が観た写真は子ども心が顕われていました。ひょっとしたらその写真撮影の瞬間に私の心が自由に遊んでいたからかもしれませんが、その遊び心そのものを持ち帰ったのです。

いつまでも自然や身の回りに関心を持ち続けるのも、心が遊ぶからですし心はいつも丸ごとで感じます。もちろんその時その時に心は何を捉えるのかは心が澄んでいなければわかりませんがそのように心が遊んだ瞬間を捉える感性はそれを持つ人によっていつの時代も世の中に顕われてくるとも言えるのです。

思い返せば、生きた記憶というものは心が遊んだものばかりです。

本来、子どもも心もとても自由な存在なのです。
未来は心のトキメキと共に顕われます。

大切なものは大切なままにそのままの心が遊んだ奇跡で歩みを時めいていたいと思います。