気づきというものは他人から気づかされるものと、自分が気づくというものがある。
気づきというのは、主体性が必用で自発的に先に気づくことを本当の気づきと言います。簡単にいうと他人からいつも言われてから気づくのは、それは気づきではなく気づかされたのだから受動性や他発的ではないという意味です。
気づきという行為は、常に自分で行うことで決して他人からさせられるものではないのです。
何かこの気づきに対して刷り込みを持っている人が沢山いるように思うのです。
そういう私も、ただ闇雲に本を読んだりセミナーなどを聞くと同じようなことになった記憶があります。自分が気づかなくても、気づかされるのです。自己啓発などもその一種ですが、自己啓発とは他己啓発ではなくあくまでも自分己の力を用いて気づくことを言うのです。
会社などでもそうですが、やらされる、させられるとなるのは、問題意識が追い付いていないときにいうのです。それは本を読んで本に追いつかないと同じで、自分の気づきが先に行っていないとどんなものを気づいた気になってもそれは分かった気になるだけで本来の自分のものとしての本物の気づきになりません。
なぜ本物の気づきが長続きして色褪せることなく自分のものになるのかは、そこに自分が気づいたという主体性があるからです。あくまで気づかされたではなく、自分の力そのもので気づくからなのです。もっとわかりやすくいうと、自分が全てを誰にも依存せず自分のこととして丸ごとやっているからです。
私はそれを同時に気づくという言い方もしますが、自他共通自他共生一体であるとき気づきは智慧になり互いを活かすように思うのです。
大切なことは、気づかされたではなく、自分が気づいたとなっているかです。
そしてそれは必ず実践を伴っているということです。
それが自分が気づいたことが気づかされたで終わらないようにすぐに行動するということであり、実践こそが気づきの本質であるのです。
学びの本質、いや本質的な学びというものが何かは気づきの質のことをいうのだろうと私は思います。今後も、子どもたちが気づきの幸せ、学びの歓びを成長の糧にでき自立を楽しめるように自分からそのお手本を示していこうと思います。