昨日は、保育環境研究所ギビングツリーのリーダー研修にて赤ちゃん学会のメンバーである志村洋子先生の講演を拝聴することができました。
先生は赤ちゃんと音楽を中心に研究をなさっていて、音楽というものが本来どういうものであるか、また赤ちゃんというものは本来どうであるかを様々な研究事例をもとにユーモアたっぷりでお話いただきました。
お話の中では見守る保育と共通するところ、また私の思う自然観とも類似していて貴重な学びをいただくことができました。歌の持つ力、音の持つ力、楽しむ力、その偉大な自然の力を再認識できる機会になりました。
その一部を紹介すると絶対音感の話というのがあります。
「世間のいう絶対音感とは、皆が分かる共通の音でドレミファソラシドがどのようなものかと認識することができる音のことをいいます。しかしこれは本来の絶対音感と呼ぶものではなく、あくまで相対音感でそれはみんなと同じ音でなければならない、みんなと同じでなくてはならない、そういう定義の音感になっている」とのことです。
つまり本来の絶対音感というものは「その人そのものが生来、もともと最初から備わって持っている音感というもので、それが歳とともに失われてしまえば聴力が低下しそもそものものがなくなってくる」という意味で使われていました。
これは子どもの時がもっとも持っていてその後に自分の必要のないものを削り取っていくという考え方と同じです。そしてこう続きます。
「音楽というのは音を楽しむものでそれを何かの合図にあわせて音をならせるようにしたり、何かの評価を誰かがしたりすれば、もともと持っているその人の感じていた音というのは失われてしまうとのことです。特に赤ちゃんから10歳くらいまでは絶対音感を持つけれど、そのうち次第にそれが失われていき、大人になるにつれ選択し聞き分けていくなかでもともと有った機能は次第に失われていくということ。つまりは赤ちゃんは白紙ではなく聞き分けないですべての音を拾うことができている、つまりはすべてを持っているのだ」ということを熱く伝えてくださいました。
このように子どもが何もできない存在であるというのは、大人になったら何かができて子どもは子どもだからできないという大人の一方的な刷り込みに縛られたものです。何ができてなにができていないのかの定義を逆転させなければ、本来人間というものは完全な存在で生まれてくるということにも気づくこともないのです。
また先生が警鐘を鳴らしているのは、「本人たちがその気にならないのに、無理にさせようとする音楽の指導があるということ。あんな音楽では楽しめない、突然なんの前触れもなく、相手のやる気も確かめずにさせようとする。あれでは音楽にはならないということ。無理に何かの音にあわせようとさせるから面白くない、もっと自由にさせていくことがいい、それがハーモニーの本質。こうでなければならないというものではなく思いっきり好きにやって善い、そうすると楽しくなる。こうでなければならないという、先入観、不自由さが何かを失わせる。」とありました。だから、赤ちゃんや子どもに先生が一方的に大声をあげて音楽を教えることがないようにとありました。
また先生と控室でお話したときに、「なぜ幼児期にあんなに音を楽しみ歌と親しみ踊りを好きだった子どもが大人になるにつれてそうではなくなっていくのか、それをなんとかしたい」。この義憤こそが今でも先生を研究発表に向かわせているとのことで子どもを思う気持ちにとても共感しました。
私は人間は自分の興味がある好奇心があるものであれば不可能を可能にする力を持っていると信じています。赤ちゃんのときから、それを見守られれば人は必ずこの世で何かの使命を果たす立派な人になるように思います。
また音については赤ちゃんは静かな方がいいという話がありましたが私も同じ感覚で、昔からの音、つまりは自然の音というのは、私にとっては静寂の中にあるものです。静寂こそが私は音楽だと思ってもいます、あの心の中にある平静、最も澄み渡ったときに感じる無音、あの音にならない音にこそ不思議な力が潜んでいるように思います。
それに調和とは、それぞれが如何に自由になるか、自分らしく素直であるか、あるがままで自分を活かしてときにこそ楽しむという力を存分に発揮できるように思います。この楽しいというのは、自分のいのちが歓ぶことを言います。
これから学んだことをどう活かすのか、これは今後のテーマで抱き続けたいと思います。
有難うございました。