役割分担の意味

役割分担について思うことがあり、自分の考えをまとめてみます。まず私の思う役割分担は、分けてあるものではなく混ざり合っていてファジーなものです。つまりは全体としては調和するときにこそ役割が活きて一緒に取り組んでいるように思います。

つまり私の思う役割分担というものの本質は、何かを分けて行うことではなく皆で一緒に持ち合っているという意味でつかわれます。昔から代表的なことが、共同生活をしていく中で炊事、洗濯掃除から、育児や家事、仕事を含めて様々なことを役割分担して取り組んできたところを思い出します。

家では、自然に誰が何をすると言わなくてもそれぞれに共同生活を営む中で役割が分かれています。しかしこの役割は意図的に分かれていないことにもすぐに気づけます。それは役割とは業務を分けて自分と相手を分けて考えているのではなく、自然に何を誰がやるのかが分かりそれを手伝うことで渾然一体となっていくのです。

子どもの頃は、自分から手伝いたくないのに手伝えといわれると嫌々ながらやっていたものです。その頃はやりたくないことは手伝わないでいいようにしようと離れたり避けたりしていましたが、そうすると叱られ「嫌々しながらやると事故が起きるからやめなさい」とよく怒られたものです。嫌だから嫌々なのですが実際に、嫌々やっていると茶碗が割れたり何かを落として壊したり怪我をしたりと大変でした。そうして自暴自棄になり悔いても自分に返ってくるから学習して受身にならないように一度引くと下がり始まるから兎に角前へと攻めに転じていたものです。

させられるということはこういういうことで、やりたくないのにさせられるから楽しくないのです。させられていると思うのは何のためにやるのかを先に自分で考えようとしないときにおこります。言われたことをそのままにやっているのが手伝いになると次第に楽しくなくなるのです。

子どものときもなぜやらなければならないのかと不満で楽しくありませんでしたが何度も手伝っているうちにその意味やその大切さを実感してお手伝いをするということがどういうことかを学んだのです。特に親から頼られていると理解してきたのは自立してきてからで、感謝も通い合い、今では自ら頼られていると実感して自然に役割分担し手伝いをすることができます。頼り合う関係とはとても居心地がいいもので、そこに大きな安心感もあります。

きっと家の中でも自分が重要な立場であることを自覚し、それに両親が老いていきつつ自分が認められて頼られているという自己認識と実感がそれをできるようにしたのかもしれません。

そう考えると役割分担も刷り込まれているものがあるように思います。

元々は自分の役割があるということはこれは大変な名誉で誇らしいことでもあります。

自分の能力が他の人のためになる、これは人類が今まで生き残った力であろうと思います。歴史からみても人がその能力がつまらないことのためにやるのか、社会の中で理念や志のためにやるのかで意味が変わります。それは例えば、 かの三国志の関羽や張飛が、無頼漢で力だけがありあまる山賊のようであったのが劉備と出会い、平和のために大義の実現のために立ち上がろうとしたときにその才能は天下国家のために開花したのと似ています。

自分の役割があるというのは、それ相応の理念の実現のために使われるとき役割に誇りを持つことができるのです。もしもその手伝いが、子どものためになると信じる時、もしもこの役割こそが理想の実現のために使われると信じる時人はどんな労苦も厭わないのです。同じプライドでも、なんで自分がこんなめにと思う不貞腐れたプライドにするのか、また自分を理想のために使えるとプライドに思うのではその働き方も変わって来るように思うのです。

自分が何のために辛苦を味わうのか、困難に立ち向かうのか、それはすべて理念があるからのように思います。目先をみるとすぐに理想を失うのは世の常ですが、そういう時こそ倦まず弛まず怠らずに精進していくことが役割を誇りのままに維持していくことのように思います。

なんだか目先で見ると理念からかけ離れた業務もありますが、そういう時こそそれも大切な「学び」、これが自分のプライドだとして自分の才能をより発揮し磨いていくように理念から離れないようにすることが正しい実践であろうと思います。

どんな些細な仕事の中にも精魂を込める、丁寧に行うという姿勢は常に自分の都合を優先しないで理念を優先するという学びの姿勢、素直な姿であろうとも思います。

つまり役割分担、渾然一体になるというのは、そういう志や心を合わせるのが先なのかもしれません。だからこそ何のためにやっているのか、常に考えることが役割分担のコツのように思います。何のためにを忘れると往々にして仕事に心が篭らず自分からプライドも粗末にしてしまうから自分我嫌々になってしまうのかもしれません。

これも日々に心を入れて身体を使い主体的に役割を思う、そして考えを掘り続けることで、はじめて深められ、そうしていつまでもその深めた場所に止まることができる信念を持てるようになるのだと思います。

自分を大切にしていくことが役割に気づき、分担を楽しむことなのだろうと思います。
自分を大切にするとはどういうことか、それは自分の覚悟を生きることであろうと思います。

チームが成長しその個々が成熟していかなければ共生のモデルになりません。
今を学び自分を大切にして、直向に素直に精進あるのみです。