信念を迎える

人は何を信じて生きていくかというものを持つことで自己を確立していくように思います。

それぞれに顔が異なるように、その生き方というものもそれぞれに異なります。それは自分が他とは異なっているという使命を帯びているのです。

人生というものは、自分のそういう異なる部分をどれだけ伸ばしていくか、そして如何に自分に合うものを探し出していくかということで開けていくもののように思います。

自分の好きなことをやるというのも、日々の生活の中で選んでいくものです。
それは生き方の方を言うように思います。

好きなことをやるというのは、好きな生き方をやるということでそれは単なる好き嫌いの好きではなくそうありたいと自分らしい方を選んでいく自立した姿であろうとも思います。 それが自然であり正直であり、自分のままでいるということになるように思います。

人はいつも誰かの目線を意識したり、常識に縛られていたりして自分らしくいることよりも自分が周りと違わないことにどこか安心してしまっているものです。そもそもの根幹にある自分は異なるというところから入るのではないところが自分らしさを見失ったように思います。

そもそも異なるということは、そもそも認めるという自然に沿った在り方のままでいるということを言うのです。自然界では、異なるからこそ重なり合うことができ、異なるからこそ共に活かし合うことができ、異なり合うからこそ永続して循環の中で安心することができるのです。

そう考えてみると、最も大切なのは信念であろうと思います。

自分が何を信じて生きていくか、素の確立をしていくことを誓い今年も感謝で終わりたいと思います。今年も沢山の人達に出会い、自分が変わっていきました。その感動や感激はいつまでも忘れません。

有難うございました。

尽くすと待つ

人事を尽くして天命を待つという言葉があります。

これは人事と天命という言葉が強いように感じますが、本質は何を尽くして何を待つのかということではないかと思うのです。

尽くすというのは、自分のすべきことを行うという意味で使われるように思います。
そして待つというのは、全てを丸ごと信じるという意味で使われるように思います。

元々、尽くせないときというのは自分のすべきことではない余計なことばかりに手をだし本来の自分の役割を果たそうとしないときにそうなるものです。そして待てないというのは、周囲を信じる事が出来ず自分の思い込みに囚われるから待つよりも思い通りに動かそうとして焦るときにそうなるものです。

そして人事というものは、簡単に言えば皆の御役に立つように自分を遣い切るという言い方ができます。人の世界は、共生と貢献で成りなっているのだから自分が何のお役に立てるかを真摯に求め一生懸命に自ら尽くし、自他を喜ばせることが人事そのものになるのです。

また天命の場合は、簡単に言えば自分は全体の一部として循環の中にいて生死を分ちあっているともいえます。そういう自然そのものの姿丸ごと全体のことを心で感じて信じきるとき、きっとこれでいいのだろうと天に任せ天に委ねるいのちがあることを知り天命となるのです。

この両方は、自然界にいる野生の生きものたちは当たり前に行っているものですが私たちのような自然から少し離れているものが本来の在り方や姿を忘れないためにいつもバランスを取るためにこの尽くすと待つを常に確認する必要があるように思うのです。

大極的に観れば、太陽系の星々と共に地球号に乗り込み大宇宙と旅をするなかで、私たちはその必然の中で生きる死ぬの往生を知る者たちで構成されているのです。

自分が何をすべきか、自分にしかできないことは何か、そしてこれでいいのだと信じることが子どもの前で全身全霊で歩んだ道のモデルとしての自覚になるように思います。

この曲がりくねった道が、自分の道だと歩みを振り返って来年の準備に代えたいと思います。

 

保育とは

保育ということに取り組む中で何よりも大切にしていることがあります。

それは生きる力を育てる事です。

そしてその生きる力とは私にとっては学ぶ力を引き出すことです。

学ぶ力というものは、何よりも学び、誰よりも学び、全てから学ぶという姿勢を忘れないこと、つまりは生き方を学ぶことを求めることだと思います。

人は学ぶ姿勢というものが次第に失われてその人らしい光を失っていくように思います。

子どもの頃はどんな出来事からも何かを感じて、自分の元々備わっていたものを磨きそれを昇華し自分らしく自分の人生の意味づけを行いつつ学ぶ楽しみを心から味わっていたものです。それが誰かから施された教育によって学ぶことが何か知識を得て結果を出すことかのように思われるようになったのはとても残念なことです。

子どもの生きる力というものは、私にとってはその周辺の大人たちが子どもから本来の人間の生き方を学び、それを自分にも置き換えてすぐに実践し、それをじっくり内省した後に正直に意味づけし、自らを磨き修めていくということを行う力のように思います。

つまりその人の生き方そのものがその人の生きる力というものです。

私の言葉でいうと、「子どもをお手本にしながら、子どものお手本になる。」ということ。

そういうものが保育の本質であろうと私は思います。

生き方というものは、実践を通してしか学べないものです。それは学び方も実践そのものであるからです。頭で考えているだけでは生き方は変わりません。そして思っているだけで行動しなければ時間の無駄なのです。保育を行うというのは、まず行動し実践し、自分勝手に知識だけを蓄えるのを行うのではなく実践しながら内観し、自問自答で真実を求め続けて悟りつつ、その今に感動感謝で楽しく幸せな人で在り続けているということです。

保育の道を伝道するというのは、実践したものだけで伝えるということが何よりも大切です。実際の伝道というのは、自らが道を自分の脚で歩むときだけ行えるものだからです。そして歩んでいるのは頭でやるのではなく、足を前に出し続けているから前進していくのです。

自らの生きる力をもって子ども達の未来を導けるよう、実践できること、実践し続ける事ができる日々に心から感謝して歩もうと思います。

 

ゆっくりの本質~心の故郷~

子どもの頃のことを思いだすのに太陽や月のことがある。

あの頃は、昼や夜に自分が歩くと一緒についてくる太陽や月を不思議に思ったものです。

何度も走り込んで遠くにいっても、空を見上げればどこまでも自分に着いてくる太陽や月。
こちらが角度を変えてみても隠れてじっと待ってみても見上げたらやっぱりそこに居るのです。車に乗っても自転車に乗っても空を見上げてはあれはなんで着いてくるのだろうねといつも誰かに聴いていました。

気がついた頃にはもう考えるのを諦めてしまい、なぜだろうとしつつもきっとこれはいつも居るものなんだという当たり前の存在への安心感を全身全霊に刻み憶えたものです。

同じように夜になれば今度は無数の星たちが出てきました。

一番星にはじまり夜を迎え、深夜の満点の星空、黎明の時間の紫色の空の点々とした光。
そして月が薄くなり、山の向こうからまた必ず顕われる橙色の明かりといつもの太陽。
風に雲に霧に木々の音、鳥の声、緩んでいく空気、そして人々の生活の気配。

こういった毎日がなぜこういった毎日なのだろうと子ども心にいつも不思議を憶えていました。

ゆっくり過ごすということは本当は何か。
自然と共にあるということはどういうことなのか。

そういったことを子どもの頃はいつも覚えていた気がします。

今の時代は、ゆっくりというのはスピードだけでしか語られることはありません。しかし子ども達の心には、本来のゆっくりが備わっていて無限の時間を有するように思います。そういったことを思い出すことが本来の自分を取り戻していくことのように思います。

ふり返りをしていたら、なぜか不思議な懐かしさまで思い出してしまいました。

いのちはゆっくり生きるといい。

それは太陽と月と地球と自然とともに歩む大切な日常との美しい邂逅かもしれません。

鞍馬での朝にふと、心の故郷を思い出しています。

魂の声

世の中では理で割り切れないことやその機会がとても多いように思います。

天道地理と義理人情ではないですが、自然と人間社会はどちらにも理が存在します。
だからこそ理は割り切ることができないということでしょう。

つまり日時、理屈でどうにもならないことばかりに生きているのが私たちであるのです。
それを言葉にしようとしても言葉にできず、それを伝えようとしても伝えられない。

それでも絞り出していけばそこに「魂の声」のようなものがあるように思うのです。

その魂の声は心を澄ませば丸ごと自然に出てくるものです。
そこに耳を傾ければ自分が何を一番大切にしたいかが出てくるのです。

そういうものがあると認め、自分の運を信じて伸ばすことが人生のように感じます。

ご縁というものは、その魂の声にも耳を澄ませていくことのようにも思います。

存在というものの大切さを思う時、人は本当の自他の価値を覚るように思います。
そういうものに互いに気づき合いながら運を伸ばすことができる心友というものがある。

この魂の声を交わせる人たちがひょっとしたら「ソウルメイト」というものかもしれません。

ご縁の不思議さ、その霊妙さに感激しつつ「有難うございます」という言葉を自然に何万回でも唱えたいとき、そこにソウルメイトとの邂逅を存分に感じているように思います。

答えなどは要らず、正しいなども要らない。

「自分がそうしたいからそうする。ただそれだけのことです。」

これのみの対話です。

これからも謙虚に素直に、理由よりも魂の声に耳を傾け、運に正直に信念のままに自らの人事を尽くして天命を待つを掌に容れながらかんながらの道、その精進の日々を送ろうと思います。

今、生きている幸せを噛み締めて歩んでいます。

分かち愛

分かち合うということは素晴らしいことだと思います。

苦しみを分かち合うことができる人がいるから孤独というのはまたそれも自分を磨くチャンスになります。そして歓びを分かち合うことができ人がいるから仲間というものもまた自分を認めるチャンスになります。

人は一人ではないと思う時、そこに仕合せということを感じるように思います。

自然に沿った生き方というものを今年は学び、その中で素直であること、ありのままの太陽や月のようにしていること、そして恩恵を共に分かち合っていることなどを学びました。生きていくということは分かち合うことだということも今ではそれがはっきりと観得るのです。

そして人のご縁というものを考えてみます。

よくよく生というものをふり返ると、この世はこれだけの人達がいる中で同じ苦しみや歓びを持ち合う同士がご縁を得ているように思います。例えば、今までのその人の人生の道に歩む中で何らかの出来事から深く悩み傷つき無理をして正直でいられずに我慢をしたままでいたことが苦しみの原因になりそれがいつまでも取り除かれないままになっているとします。

それが一人で前に進もうとすればするほどに苦しみに苛まれ歩みを止めてしまってさらに苦しみが大きくなっていきます。それをご縁を辿り結ぶことで、自分の自然の姿に近づこうとし、それを共に分かち合うためのパートナーというものが顕われるようににも思うのです。

そうしてそのパートナーと共にあることで、様々なものを分かち合い、認め合い、助け合い、許し合い、救い合い、笑い合い、信じ合い、、、これらの合いを分つことで素直な自分、肩の力が抜けた自然体の自分に戻っていくようにも思うのです。それだけ人が一人では生きられないというのは、苦しみも歓びも人と人との間で共有することで生きているからのように思うのです。

私の大好きな言葉にドイツの詩人ティートゲの言葉があります。

「二人なら苦しみは半分、喜びは倍に」

喜びを人に分かつと、喜びは二倍になり、苦しみを人に 分かつと、苦しみは半分になるということですが、これはご縁そのものの意味を詠んでいると思うからです。

人は誰でも何かに苦しみ悩んだからこそ同じような体験をしている誰かの御役に立てるように思います。自分が乗り越えたことや、自分が体験したことが必ず誰かのためになっていくのです。だからこそ、体験を意味づけしていくことは重要でそれを積み重ねていくことが人生を善転していくことであろうとも思います。

こうやって人は自分のいのちが何かの役に立つということに幸せを感じます。
そしてそれは共生して、その中にある貢献によって得られるように思います。

必ずその苦しみを乗り越えられるパートナーというのは顕われ、必ず道に同行してくれるものです。だからこそ、人生には無駄がないのであり全てが学びであると言い切れるようにも思います。

自分の体験が誰かの御役に立つと思うだけで、幸せな気持ちになりますからご縁があることの素晴らしさを実感します。もっとお役に立ちたいと思えば思うほどに自然に近づいていく必要を感じています。

私は今日この記念する日に、分かち合いは、「分かち愛」なのだと意味づけました。

これからも自然や子ども達から見習い、いつも広い明るいニコニコ笑顔で自分らしい花を周囲と分かち愛ながら純粋無垢な大輪を咲かせていきたいと思います。

 

正直と自分と正対

人の抱える苦しみや問題について考えるとそれは自分との向き合い方に集約されるように思う。

自分に正直な人は、自分との付き合いが素直になるだけではなく他人との付き合いも素直になります。いくら素直にといっても、自分に嘘をついたり自分を偽れば同じように他人にも同じようにしてしまうのです。

自分を信じるということは、自分の思った通りに自分と付き合うということに他なりません。何かの価値観を正しいと信じ込んで無理強いをしたり、もしくは自分の内面からの声に耳をかさなかったりすれば次第に自分というものが分からなくなるのです。

自分というのは、感情の自分、つまり我の自分というものがあります。それに対してもともと備わっている本当の自分、つまりは魂やいのちの自分というものがあります。そういうものとの折り合いをどう保ち、如何に自分らしく自分の人生を生きていくかというのが命題になっているように思います。

この自他に正直であるというのは、自分らしく生きていくということに他なりません。

人生には色々な正解があります。

この正解が誰かにとって正しいなどというものはなく、その人にとって正しければそれは正しいとするということ。素直に物事を観れば、その人らしくいることがもっとも正直な自分の姿であるようにも思うのです。

嫌だなと思ったり、自分と合わないというのは正解がその人では異なるのかもしれません。もちろん人が生きる上で共通し求めるものは真理として存在していますが、その人らしく生きるという真理もまた同時に存在しているように私は思うからです。

天と人ではないですが、その両方がバランスよく一定に混じりあっているときもっとも正直にいれるように思います。自分に正直になるには、もっと自分を信じることが必要です。自分を認め許すことは、他人を認め許すことでそれが正直、つまりは信じるということにつながっています。

実践は、許し認めるということから人を愛すということを学び、我を省くことから人事を尽くし義を学ぶということかもしれません。正直と自分と正対は、常にバランスでありセットです。様々なことから学び、多くの矛盾を陶冶していきたいと思います。

忠義

今年は義について確認することが多かったように思います。

特に源義経、木曽義仲、楠木正成、そして上杉謙信と義についての武将から忠義ということが何かということを学び直すことができました。

それぞれが天に対して定めた生き方そのものを貫くときに顕われてくるのがこの義です。相手が比較や人ではなく、天であるからこそより凛とした厳しい姿勢で自分を尽くしていくことがどれだけ純粋な魂であるかを憶えるのです。

これらの人達から生き方を照らして学ぶというのはとても有難いことで、自己観照するときに自分がこの人だったらと考えるそれだけで自分がどうあることがより物事の実相を正しく掴むことができるかを学ぶ事ができます。特に上杉謙信はとても自己観照していくことに相応しく思うのです。上杉謙信の思想や実践、そこにはとても共感するものがあります。

例えば、謙信に有名なものに「敵に塩を送る」ということがあります。

これを新渡戸稲造は武士道でこう書きます。「聞く北条氏、公を苦しむるに塩をもってすと、これきわめて卑劣なる行為なり、我の公と争うところは、弓矢にありて米塩に非ず、今より以後塩を我が国にとれ、多寡ただ命のままなり。」と。謙信は戦は戦、それで塩を止めて民衆を苦しませることはならぬと、自分は卑怯な方法で戦うことはしないと述べるのです。正々堂々と、公平に天に忠義を照らして常にその瞬間を判断していくのです。

この上杉謙信のことを共に戦ったものたちや家臣はこう語ります。

武田信玄の場合は死を前にして、「あのような勇猛な武将とことを構えてはならぬ。謙信は、頼むとさえいえば、必ず援助してくれる。断わるようなことは決してしない男だ。この信玄は、おとなげなくも、謙信に依託しなかったばかりに一生、彼と戦うことになったが、甲斐国を保つには、謙信の力にすがるほかあるまい」と勝頼に言い残し、菊姫が上杉景勝と婚姻します。

そして北条氏康からは、「信玄と信長に表裏つねなく、頼むに足らぬ。ひとり、謙信だけは、請け合った以上、骨になるまで義理を通す人物である。だから、その肌着を分けて、若い大将の守り袋にさせたいと思う。この氏康が、明日にでも死ねば、後事を託す人は謙信だけである」として謙信を認めています。

そして関東の知勇兼備の名将、太田資正からは、「十にして八つは大賢人、残り二つは大悪人である。彼は勇猛・無欲で清浄、器量が大きく正直である。物事を明敏に判断して、しかも慈悲深く、もし人から諌めららればこれをよく聞き入れた。ただ怒ることが多く、心違いをしたこれが欠点であろう。ともかく謙信は善所が多い稀にみる名武将であった」と、その謙信の人柄について語られます。

上杉謙信を自己観照すると純粋に天に殉じて義を貫いたその生涯に勇気と愛をいただけるような心地になります。時代がどのようであったとしても、義の生き方は普遍であるようにも思います。

今年は辰年、私にとってはとても大切な節目の年でした。忠義は常に天と人との純粋な関わりがあり、はじめて顕われることを実感します。最後に、上杉謙信が春日山城の壁に書いた回訓を紹介します。

「運は天にあり。鎧は胸にあり。手柄は足にあり。 何時も敵を掌にして合戦すべし。疵つくことなし。死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。家を出ずるより帰らじと思えばまた帰る。帰ると思えば、ぜひ帰らぬものなり。不定とのみ思うに違わずといえば、武士たる道は不定と思うべからず。 必ず一定と思うべし」

これは意訳ですが、人は運でどうこうを決めるのではなく常に運は天に任せて、どれだけ自らの人事を尽くすかということを戒めるということだと思います。人はすぐに何かあると誰かや運のせいにして言い訳をしますが、自らに課した人事が果たして天に叶うものであったかとそこにも我が真心、その凛として律した己が忠義を正すことをやめないということです。

心頭滅却していくということを、常に意識して修養をした一生だったのではないかと毘沙門天の姿から実感しました。大義や龍に恥じないような純粋な魂を磨きつつ、気づきをさらに自問の糧にし子ども達の幸せを祈り、今の日々を精進していきたいと思います。

 

 

心で関わる

先日から「分かってもらおうとしない」ということについて深めています。

大前提としてこれはまず分かってもらえていないと思うから相手も周囲も分からないのですが、私はこの分からないというのは実はそのまま別に分かってもらうものではないからかもしれないと思っているのです。

人は相手と共感するのは、もともと自分の中に備わっているものから探していきます。特に共感力の高い人は、自分の中でそれを感じる引き出しが多くあり、それは子どもの頃から関心や興味をいつも自他へ向け続けてきたからとも言えるように思います。

人は自分のことばかりを考えて生きるようになってくると、関心を持つというよりも自分のことを如何にわかってもらおうかとばかりに躍起になってしまうものです。

しかし子ども達を観ても感じるように子どもはやりたいことがただあるだけで分かってもらおうとはしていません。それをこちらが共感しているからこそ、相手の本当にやりたいことに寄り添い手伝うことができるようにも思うのです。

しかし今は、刷り込みで指示や命令、何かを言わなければ動かないというように共感しているというよりも頭で処理していく方が便利だと勘違いしその共感はとても低下しています。

分かろうとするのでもなく、分かってもらおうとすることもなく、ただ関心を持つこと。この関心というものは、世間で言われる単なる興味などのことではなく心で関わるということを書くのですから心のままでいるということなのです。

分かろうとしないということは、心で接するということ。それは頭で理解しようとすることではなく、自分も同じような心がありその心は同質のものがあると信じる事のように思います。

何かやり遂げたいことがあるのだろうと思うのが本来の関心です。

それは分かってあげようとか分かってもらおうとするのではなく、もっと心を澄ませてお互いのやりたいことを尊重し合う環境の中にこそ真の心は存在するように思います。自分のやりたいことそのものが誰かの御役に立てると信じることができれば分かりあろうとはしなくてもそれで善いではないかとも思うのです。

不識という言葉には、なおまだ説明ではできない分からなくてもいい境地があるように感じます。さらにそれを追及して気づいて、シンプルな中で無我夢中になっていきたいと思います。

 

楽しい学び

昨日、社内を古民家のように改造し楽しい職場についての研修を行いました。

講師には、新宿せいが保育園のベテランのお二人に来ていただきお鍋を食べお酒を飲み日頃の楽しい事例について語り合いました。気の合う仲間との会食はとても嬉しくそして美味しく、時間が過ぎるのもあっという間でした。

その中で、色々と教えていただいたこともあり学び直しを楽しむことができました。

一つには、学ぶ姿勢。

いついかなるときも、自分が学ぶからこそ教えない、日々に子ども達から学び自分を変えつづけているからこそ色々な意見を聴いてもその人の答えが正しいということになるのだろうと思います。分かった気にならない実践、つまりは自分自身が常に様々なものから真摯に学ぼうとする姿勢が何よりもこのベテランの姿勢であることを自覚していらっしゃるのです。

そして二つ目には、バランス感覚。

方針があり目標があり皆と歩む中で間にいるベテランがバランスを取ることができるからこそ周囲も安心してそこで委ねて一丸となっていくことができるのです。私の解釈ではアメーバのようにふわふわとカタチを換えながらもその粘着を緩やかにしているのがこの中間の役割です。自分の価値観に固執し、偏りバランスを崩せば組織も同じようにバラバラになってしまいます。しかしこの間にいる中堅やベテランの人達の絶妙なバランスが全体の調和に非常に役にたっているのだと思うのです。いつもバランスを意識するには余裕もゆとりも、そして自分の主軸をきちんと持てるということ、それはつまりトップの思想やビジョンに精通していらっしゃるのです。

そして最後は、分を弁える。

自分の役割というものを正しく理解すれば、分度という自分の分を弁えることができるということです。欲目から自分を過大にも過小にも評価せず、あるがままにありのままに正直にいれば自分がどのような役割を担っているのかを知ることができます。そしてそれは自分を活かしてくれている上司や周囲に対して自分にしかできないことを正しく理解することができるのです。つまり出しゃばらないということ、言い換えれば見守るなのです。自分の分度を正しく理解するから余計なところは手をださず、その人の役割にお任せすることができるのです。これは人や相手を心から尊重していらっしゃることをいうのです。

そしてこの分を弁えるという言葉は、身の丈を知る、過大評価しない、これは「自信」そのものです。本当の自分の「実力」が分かっているというのは、本当に自分や困難に向き合って乗り越えたものだけが使っている「謙虚」そのものの言葉のように思います。

そしてそれは確実に夢や道を自らの脚で正しく歩むときに出てくる言葉です。

私も昨夜はお酒が入っていたので、盛り上がりましたが今朝がたには感動して身震いし心が熱くなりました。こういう人たちがいる職場には自然に求心力が働いていくようにも思います。子ども達の周囲にこのような大人がいるということそのものが尊いと感じる一夜でした。

また道を歩む中で、時折、学問を語り合い、学び合うことができればと思います。これもいつもながら見守られている御蔭とし、さらにより一層の向上と精進を積み未来の子ども達のためにも実践で還元していこうと思います。