自立直

大量生産大量消費の社会の中で、政権も短命で目先ばかりを追わせるような社会システムに色々なところで疲弊がみられます。

幼児の業界も、子どものためとはいいながらとはいっても大人の都合で親向けのサービスが過剰になり、競争はまた激化し保育の質はさらに低下していく感じにもなっています。

そもそも即効性があるようなことばかり望むのは、その大前提として長い目で取り組んでいこうとする意識が弱くすぐに成果があがるものばかりに手を出すから余計に余計なことが増えていくともいえます。

本来、子どもを産み育てるという方針は民族の生き残りの戦略ともいえもっと国家全体が真剣になって一丸となって取り組んでいく必要があるものだと思います。

子どもの幸せという定義も、実際は親の都合で右往左往していたらいつまでたっても同じことの繰り返しのようにも思います。温故知新ではないですが、何を変え何を変えないのかその辺を議論していくことが今後も必要だと思います。

人は誰しも幸せになりたいと思っているはずです。
そしてそれは子どもも幸せというものを願うのです。

これを どのようにして実現するかを真剣に向き合うのは、同時に自分の幸せとは何かということに向き合っていることになるのです。何かの都合を優先して、それを後回しにする社会をこのまま続けていながらかたや子ども達には善くなってほしいと思うのは本末転倒であるようにも思うのです。

自分が幸せに生きるように子どもも幸せに生きるようにするのは、それは自分らしい生き方を示すことで子どもらしい生き方を保障するということに他ならないとも思うのです。

何かあると派手ですぐに分かりやすいことばかりが政策に組み込まれ、帳尻を合わせるような現実ばかりに逆戻りですが太古の昔から引き継がれてきたものや受け継がれてきたものは根底に必ず残っていると思います。

それを目覚めさせるためにも、刷り込みを取り除く努力を怠ってはならないとも感じます。

如何にこれからか自分を立て直すことができるかという力の芽生えがいります。
来年も保育を深めながら、様々な生き方を見直していきたいと思います。

 

 

仁義と至誠

日々の喧騒の中で人との関わりの感情というものはとかく大変なもののように思います。

コンサルティングやコーチングの中でも、もっとも身近な関係を仲善くあり続けていくのはそれほどに日頃の思いやりがあってこそのようにも思います。

無意識に自分の利害を思い、自分の都合のみの価値観に囚われていると次第に人との関係に思いやりが出にくくなってきて互いの主張ばかりがぶつかり合うようになるものです。そこに立場があれば、力がある人が正しいと言い張り、力がない人が我慢するという構図が生まれ余計に人間関係による感情がもつれるように思います。

孟子に義があります。
その中で何度か振り返るときに、気になる文章があります。

「孟子曰、仁人心也、義人路也、舎其路而弗由、放其心而不知求、哀哉、人有鶏犬放、則知求之、有放心而不知求、學問之道無他、求其放心而已矣。」

意訳もありますが、

「孟子が言う、仁とは本来の人の心のことです。義とは、本来の人の道のことです。その本来の道を捨てて指針もなく、その本来の心が出て行っても探し求めることを知らないとは、なんと不幸で哀しいことだろうか。人は家で飼っている鶏や犬が出て行けばどこに行ったのだろうかと捜し求めるのに、なぜにその本来の心が出て行ってもそれを探し求めることを知ろうとしない。学問の道とはこのことに他ならず、その出て行った本来の心をもとに求めることに尽きるのだ」

仁というものや義というものは、元々人に備わっている自然の姿でありそれを見失うことは仁義を失うことだと切に訴える姿に省みることの大切さを実感します。

また自分の身辺をふり返ると、天地には道理というものがあり無理をしているというのはどこか素直ではないことが起きていると思ってまた自分の中の素直な心を探しに行く必要があるように思うのです。素直な心はとても思いやりや真心、その優しさに満ちていて自分の損得勘定や利害損失に囚われずいつも王道の中で仁義礼智信の実践を行うことができるようにも思います。

しかし実際は、どうしても無意識に自分の自我が優先されて相手に求めて自分に求めないようになるから心は遠くに離れていってしまうようにも思うのです。

無理をすればするほどに感情というものは波立ってくるように思います。無理をしないというのは、道理に反しないということでそれは仁義というものを大切に学問を修養しているから無理がなくなってくるように思います。

自然というのは何も山や川、森や水に触れなくても自分の人としての生き方的なものを修めていく中で顕われるようにも思います。天人合一ではないですが、天の仁、人の義、その合致のように本来はそこを分けないほどに生き方や在り方を一致させて至誠になることをいうのかもしれません。

一つ一つの行動を素直に観照し、見直していきたいと思います。
感情的な出来事も呑み込んで消化し、それを前進する糧にし精進に換えていこうと思います。

 

自ら強めて息まず

観えるという行為は、一般的には眼で行うようなものではありません。

よく心眼などということもありますが、これは感覚で掴んでいることのように思います。

先日、植物のことで深めているともともと目はついていないはずの植物が季節を見通し、未来を見通し、周囲の共生を見通し、こちらの関わりを観通しているかのような感覚を覚えることがありました。

例えば、神社の大木などもそうですが確かな見守りを感じることがあります。それはその木を触っているときにも感じますし、音を聞いていても感じることがあります。つまりは、五感というのはすべてを観るという行為に繋がっていると私には思うのです。

眼で見るものも、正しく感覚を澄ませば眼で観るということになるのだと思います。

そしてそれと等しく、耳で聴く、匂いを嗅ぐ、舌で味わう、体で触るというように大切なことはその感覚を通して観ていくように思います。それを私は直観で観るという呼び方をすることもあります。

観るという行為は、自然そのままの行為であるがままに混ざり合ったものを混ざり合ったままに観得るということです。分けないという言い方だと分かれてしまう気もしますが、そうではなく自然のままに観得出すという言い方の方がいいように思います。

不自然であるということの感覚は、頭で間違っていると思うよりも正確でそれは全体から観ればおかしなことを行っているという気づきと発見であるとも言えます。

自ずからそれを確かめるには、常に自分を立て直し素のままで平穏で居ることができるどうかによるのだとも思います。それは澄ませるという言い方であり、清らかにするという言い方、もしくは明らかにする、素直になる、つまりは真心に戻るということを言うのです。

人は真心が出ないのは、どこかで自分の感情に左右され物事の実相が正しく観えないことからはじまるように思います。私の場合も、都会に来て数日人との関わりばかりのなかで都市のシステムに暮らせば次第に感覚は鈍っていきます。そうならないように心に確かなものを持とうとしますがまだまだ修養が足りず精進の日々です。

しかし感覚を研ぎ澄ませていくことは、創意工夫と鍛錬でできるように思います。日々の変化に対して、常に心を新たに観続けることを「自ら強めて息まず」で歩みたいと思います。

頑固と柔軟

変化する組織に必要なのは柔軟性だとこの頃は特に思います。そして変化というものを一番嫌うのは頑固であろうと思います。

頑固とは辞書で調べると、「かたくなで、なかなか自分の態度や考え を改めようとしないこと。また、そのさま。」と書かれています。

頑固というのは、自分が正しいと思い込んでいることや自分の意見しか耳を貸さないということで結局は誰の話を聞いても聴く耳は持たず自分の思い通りに意固地になっている様を想像できます。

これもよく信念とか芯があるとか誤解されますが、本来の信念とは大切なもののためなら常に柔軟に自分を変えることができるのを言うのです。

例えば会社が目指している理念が明確にあるのなら、自分の意地を優先すればそれは理念から外れたことを一人頑固に行おうとするところに変化できない理由を生むのです。自分にとっては都合が悪いものでも理念を優先できるかというのは、常に自分の柔軟性を試されるものです。それは変化に対して変化するのは、大切な守りたいもののために変化を遂げ続けていくことが理念の実践だからです。

変化というものは、柔軟性が必用なのは優先したい価値があるのなら自分の方を融通無碍に変えていけばいいという素直な心の顕われです。どこかで理念を認めていなく、自分の都合や自分の思い込みを優先すればそれはすぐに事故か事件として表出してくるものです。

特に働き方や生き方などを一致となると、余計に公私の別がなくなるのだから誰が観ていようが観ていないが関係なくいつも自分が素直にその理念に忠実であることが必要になるのです。

そもそも頑固というのは、自分は間違っていないという反省しない心の顕われです。

もしも自分が間違っていたと素直に反省するのなら、今まで頑固に自分の意見を通そうとしたこともひょっとしたらこれは理念から外れているのではないか、間違っているのは本当は自分ではないかと矢印をちゃんと自分へ向けることができます。

よく笑い話で、矢印を他人に向けるなとありますがしかし頑固であればその矢印は必ず内側ではなく外側に出ているということと同じであるのです。

自分を変えないために無理をして意地を通すというのも生き方でしょうが、自然界では通用せずそれは淘汰されていくものです。本来の自然は、謙虚で素直に自分を柔軟に対応してもその信念は自ずから揺るがないというのがそのものの姿であろうと思います。

柔軟性は、他人の助言や好意を素直に聴ける、そして本当に素直に聴けたならそれを正しく取捨選択できる、善転していくことを楽しめるという境地に入るようにも思います。変わることを楽しむことで柔軟性は身についていくように思います。

そう考えるとまさに刷り込みとは頑固の象徴かもしれません。

周囲のためにも大切な理念のためにも子ども達のように自分が変わるを楽しむで取り組んでいこうと思います。

道は遠く、そして任は重い。

人にはそれぞれに道があり、その人の生きる道があるように思います。

このブログも5年前や6年前の記事を読んでみると、自分の道はそこにはあってそれが次第に明らかになってきているように思えるからです。

世の中には、正しいとか正しくないとか、法則とか原理とかもあります。

天には道があり、人には情があります。

そのどちらを優先するかといえば、そのどちらにもバランスがあってその割り切れない中で自分というものを確かめていく中で道は顕現し、道を確かめ、道を歩むのであろうとも思うのです。

矛盾することばかりの日々の中で、その全てが善いことだと認められるには何度も何度も道を歩んで往く覚悟もいただけこの世に別れを継げるまで続きます。そしてその後も、その道はまた別のものたちに受け継がれ太古から歩まれているものが永遠となっていくのです。

その道は、それぞれに異なりますが全ては天人合一、道情合一のようであろうと思います。
一見、それが同じになるまで歩む道の先に何があるのか分かりません。

ただ、それに惹かれるのは道があるから生きていられるとも感じるからです。
道に対して、論語の一説で大学を記した曾子に好きな言葉があります。

「曾子曰く、士人はおおらかで強くなければならない。任務は重くして道は遠い。仁をおのれの任務とする、なんと重いじゃないか。死ぬまでやめない、なんと遠いじゃないか。」

道を歩むということにこの任を得ていると実感することに嬉しさや面白さを感じてしまうのです。

そう考えると、私も身のまわりに尊敬する方々、大好きな方々はそれぞれの座右を持っています。その座に道に刻まれた言霊があるように思え、何だか懐かしくまた温かく有難く感じるのです。

かんながらの道は遠く、そして大和魂の任は重い。

そうやって、不惑に近づけるよう来たものを正しく受け取ってまた自問していこうと思います。

頑固を素直に、正しいから楽しくに

新しいことに挑戦するとき、今までのものはやめずに取り組むという考え方があります。

人は無意識のうちに、これはいいだろうとか、これがいいはずとそれぞれに自分の都合の善い方へと解釈し、その時点では確かに善かったものが根本的にはあまり正しくなかったとしてもいつまでも引きずるように思います。

以前、断捨離といって本が流行ることがありましたがこの手順で行うことで以前のものを断ち、そして捨て、新しくなることで離れることができるというプロセスは実践してみると確かな方法であるように思います。

人は無自覚に今までやってきたことを無理やりに正しいと思い込もうと意地になるものです。それが如何に間違ったことであったとしても、それを間違っているとは思わないのです。それはまだ継続してそれが存在しているからのように思います。

自分をふり返ってみても、いまだに昔から続けている可笑しな癖や昔から今でも正しいはずだと頑固になっているものもあるように思います。それは本人の中では正しいことであるから、他人からおかしいと言われたとしても気づくこともありません。

そうやって頑固になってしまうと、プライドばかりを気にするようになり意地になって他人の言うことを聴き容れるよりも自分の方が正しいという主義主張ばかりを繰り返してしまうように思います。そうなるとせっかく変わろうとしていることを一番身近で拒否しているのが自分ということになってしまうのです。

こういう落とし穴というものは誰にも存在して、出来事や機会がせっかく教えてくださっていてもそこには気づけずまた同じことを繰り返しいつまでも引きずっているうちにまた頑なになるという悪循環に陥るように思います。もちろん、見方を換えればまだまだそれをやってみたい、時間をかけて学びたいと思う解釈もできます。

しかしそれが周りにも迷惑をかけしまうと気づいたら、素直に変わることが善いようにも思うのです。先日の寺田本家の先代の話で、「楽しく変わる」というものがありました。

正しいと信じて頑固になっているよりも、自分に素直に自分を大切に無理をせず楽しい方へと転じていく生き方に変化というものへの信の柔軟性を感じました。

私も他人には伝えながらまだまだ気づいていないことばかりかもしれません、思ったことや感じたことは素直に断捨離を優先し、本来の自分、シンプルな本質に近づいていくために精進したいと思います。

子ども達のためにも気づいたことは実践して、そして実践したことを弘めていこうと思います。

循環の本質は共生にある

昨日、来年に向けて味噌作りを行いました。九州の農園で大豆を栽培し、全部とは言いませんが購入した麹などと足して手前味噌を作りました。これから最低でも10か月間は熟成します、長ければ3年後にになりますが沢山の「ありがとうございます」を籠めた味噌がどのような味になるのかとても楽しみです。

また自然農園を借りて一年、生活をシンプルにしていくうちに食や発酵に出会いさらに深まっていく中で「循環」ということを身近に感じる日々です。

当たり前ですがもともと私たちは沢山のものを食べて生きています。それは動物や植物、昆虫たちも同じく共に互いのいのちを食べ合って生きているともいえます。

そしてそれは自分の生命を維持していくためでもあり、同時に他の生命も生かしあっていくためともいえるのです。そうして、自分の生を通して他の生の一部になることを私たちは「生活」ともいうように思います。

この生活というものはつまり自分の生き方や在り方のことで、生活を見直すというのはこういう「循環」の姿を改めて見つめ直すということに他なりません。

今の私たちは、物を豊かにすることを目指しましたがシンプルにしていこうとはしていません。本来の豊かさとはシンプルで素朴なものであるのは、そこに自分のいのちを活かす幸せを実感することができるからのように思います。

簡単に便利に何でも一気にできることよりも、丹誠を籠めて時間がかかってもじっくり醸していく方がより充実した生活を味わうことができるからです。素朴やシンプルさというのは、実は偉大な楽しみが詰まっているものです。味噌作り一つでも丹誠を籠めて育てたものをさらに菌に餌を与えることでよりいのちがびっしり詰まったものに換えていく。共に生き、共に食べる関係を身近で揺り動かしていくことが日々のいのちの躍動を支えてくれるもののように思います。

循環というものは、それぞれの互いの共生、つまりお互いに食べて食べられる関係を何を結ぶか、そして自分の身体に取り容れ、取り出すといったこの通過の中にこそ存在するように思います。血液もしかり、呼吸も然り、いのちを通過したものが循環の本質なのです。

如何に自分を通すものをシンプルにしていくかは、かんながらの道のテーマです。
自分が楽しく循環できるように、より共生を味わっていこうと思います。

譲るとは役割交代

種を観察していく中で「譲る」ということについて見直しています。

もともと譲り合いや譲るというのは、自分を我慢してでも他の人に譲るということを譲るのイメージとして刷り込まれているように思います。幼いときから、譲りなさいと言われたことは自分のことは差し置いてでも誰かのために我慢するようにと使われることが多かったように思います。

しかし本来の譲るとはそういう意味ではないのではないかと思うのです。

もともと自然をよく観てみると自然は譲ることを意図的にするのではなく、自分の生を全うして役割を交代することを譲るとしているように感じるのです。

季節のめぐりにあわせて、それぞれは一生懸命に自分のいのちを生き抜いていきます。そこには遠慮が在ったり手を抜いたり、何かに合わせて我慢したりするのではなく一生懸命に自分の使命に生きぬくのです。

それが途中で無念にも最期まで生きられなかったとして、自然に淘汰することになったとしてもそれは他のものに思いやりから譲ったのではなくただいのちの役割を代わってもらったとしているのではないかと思うのです。種どりをしていく中で発見したのは、あれだけ一度に多くの種がなぜ必要なのかということ、あれだけたくさんのいのちがなぜ同時に目覚めてそして一部のみが生き残るかということを知覚するのです。果たして今の人間社会が言うように、全部のいのちを残すことが本当に思いやりなのかと疑問に思うのです。

正しく謙虚に素直にものごとを観るのなら、大事なのはいのちへの在り方ではないかと。つまり本来のいのちは、自分の生を何がなんでもと全身全霊一心不乱に生き切ることで周囲と共生し、そしてそのいのちが全うされるときにこそ譲るになるということ。

今、足元の自然の畑でも、秋から冬に向け今まで生きていたいのちたちが種をつくりその分、体は乾涸びてきて隣にいるいのちが新しくこれから生きはじめていくのです。これは別に思いやりでそうしたのではなく、自然に一生懸命に生き切ることこそが真の思いやりであり譲り合いであることを証明しているのが自然ということなのです。

今はチームワークもそうですが、無理に何かと協調しようや譲り合おうなどとするのはおかしなことのように思います。それはかなり自分都合になっているのではないかとも思うのです。誰かを思うために力を抜くことは本当に優しさであるのかということです。

本来は、自分がやるべきことを一生懸命に全身全霊で遣り切ること、自分のすべきこと、そのいのちを遠慮なく発揮していくこと、それを無理に周りとあわせようとするのではなくそういう自分を生き切るということの中にこそ合うと譲るがあるように思うのです。

そしてそれは譲り合いという、万物のいのちのために正しく役割交代をするということです。

自分だけでできないことは役割を交代して永続していのちのバトンタッチをして種を遺していく。その役割交代していくから今の自分たちが生き残っている。先祖がそのように生きたからこそ、今の私たちがこの時代を生きていられ、そして今の私たちが同じく生き切ることではじめて子ども達に譲ることができる。

そうやって一生懸命に生き切った後には、必ず種が残り、その種からまた新たに広がっていくということなのです。種は蒔かれるときにこそ、そこに新たないのちがはじまり、種は生まれるときにこそ役割交代がある。

自然の安堵を安心を実感し、天命や使命の有難さを憶えます。
種をテーマにしてきたこの一年、いよいよ残りは半月ほど。

心に刻んでいこうと思います。
そして世の中にカタチとして出す日を天虚に待とうと思います。

協力の本質

協力というものを深めてみます。

そもそも協力とは何かというと手伝ってもらうことや支援してもらうことではないように思います。本来、協力という意味では何か誰かに力を貸してもらったり、誰かの力を借りたりといったお互いに協力関係をギブアンドテイクで出しあったり貸しあったりするイメージがあります。

しかしどちらかが意図的に手伝ったり手伝ってもらおうと意識すると、なかなか協調できずにスムーズに事が運びにくいという経験をすることがあるように思うのです。

本来の協力とは何かと感じてみると、力を合わせるということ、一丸となるや一体となる、心も気持ちも合わせるということをいうように思うのです。それは相手をみるとかではなく、同じ目標やゴールに向かってそれぞれが全力で力を使うことを言うように思うのです。気が合うもの同士が力が合いやすいのもそれはそもそも気が合っているからです。ここでの気は本気の気のことです。

それにこの協力という字は、「力」が合わさって重なった姿が顕われています。

協力して下さいとか、協力しようとか、色々と協力のメッセージを出すことがありますが本来は自分が力を合わせようとすることができにくくなっているときにそう使うのです。

世界では様々な協力のやり方があり、国際協力などもどちらかだけが依存したりする関係もあると聞いたことがありますがこれは互いの力を合わせるのではなく力を借りようとか力を貸そうとか互いのどちらかだけに偏ってしまうからのように思うのです。

みんなで力を合わせるというのは、どのことに対しても全身全霊で力を出すということ、そして自他を割り切るのではなく全員で力を合わせるということの繰り返しが必要に思うのです。誰かが手抜きをしたり、お見合いをして力を抜いたりしていたら、協力や協調はできなくなります。

誰かがするだろうではなく、自分からすべてを取りに行く姿勢や自分が求める力が合わせるというものに近づいていくように思います。

そしてその根幹は、対人関係や人間関係の感情が大きな理由になっていると思います。表面上の気づきは色々とありますがそこに確かな人間関係の共生の本質が存在しているものと思います。

人が素直であることは、自分を認めて受け容れてあるがままでいることのようにも思います。
人生は多くのヒントの中で、その体験を他人の御役に立てることができるようになります。

いのちは誰かの役に立てるためにあるものだから、体験を価値に転換していきたいと思います。

孤立から協力へ~協調和~

皆で働くというのは、一人が皆のために協力するということです。

先日、体調を崩したクルーがいて仕事の在り方というより協力について深く考えさせられることがありました。

もともと仕事は自分だけがうまくやるや、自分はできているからとやっていたらそれでいいわけではありません。誰かが残業して困っていたら、それを手伝って早く帰れるようにするとか、このままでは期限通り終わらないことなども手伝って一緒に片付けるとか、その人一人が困らないようにすることが協力です。

誰かだけがいつも残業するというのはおかしな話で、では残業しないで帰ってもそれを自宅や休日に行うだけですからそれは正しく協力できて皆で営んでいるわけではありません。これはその人のやり方がおかしいと責める人もいますが本来はそうではなく周りの協力が足りないだけとも言えるのです。

周りがもっと協力すれば時間通りに進みますし、周りが手伝ってあげればその人は安心する中で働くことができより効率的に効果的な仕事ができるようになるのです。なぜならもともと仕事は全体とつながっていてその人だけで完結することはほぼありません。それを一人だけでやろうとするところに無理がかかり、そして病気や体調を崩すということになると思うのです。

その仕事はもともと全員で取り組むべき仕事で、それを自分だけで持ち帰り一人でやろうとするその姿勢そのものが無理させ体調を崩すことになるのだろうとも思うのです。善い上司、善い部下があるかはわかりませんが善い上司は部下のそういう無理がでないようにと自分から協力をして全体の仕事にしてタコ壺化しないように配慮を欠かさないことのように思うのです。これは見守りです、そしてまた部下も、自分の仕事がいつも一人のものにならないように確認や報告をすることで安心していつでも協力してもらえるようにと見守られることにつとめることが正しい互いの協調和の在り方のように思うのです。

結論から言えば、仕事とは皆で取り組むことで一人でやることではないということです。

一人にならないようにするには、皆が協力するのが先決です。

一人が頑張って皆に協力を求めようとするのではなく、周りが本気で一人ひとりの皆に協力しようとする意識、そのものが安心感につながりその人の持ち味を活かしそして全体を最適にしていくように思います。

協力をするというのは、「せーの」で合わせるようなことを毎回、その都度、何の仕事であっても全身全霊みんなで一緒にやろうとする姿勢、簡単に言えば自分の仕事ではなく協力していこうとする積み上げが仲間を思いやり仲間と共に居るという絶対安心へと調和させていくように思います。

個々に分断された個人主義は一斉画一のかつて我々が受けてきた教育によって刷り込まれたものです。それは人間の本来の共生の姿ではなく、そうなるようにと何かの都合によって仕込まれたものだったのかもしれません。しかしそれが大人になって社会に出てみて体験し、実は間違っていると素直に反省したらまずは自分から変わっていくことだと思うのです。

一人で悩み病気になり倒れたりし孤独になったりする人たちが生まれないように協力していくことを優先していけば共に生きる歓びと安心感に満たされた最幸のチームは実現します。

子ども達の模範になるよう、孤立ではなく協力を学び直したいと思います。