理論=実践

理論と実践というものがあります。理論では合っていると気づいても、それを実践しなければ分からないということです。

この「分からない」とは何かといえば、「分かれない」という意味でもあろうと思うのです。

全ての出来事は、渾然一体となっていて分かれているところがない。それを理論づけるために無理に境界線を明確にし分かったとなりますが、これは単に分かった気になっているわけで切り離される前の状態を丸ごと全体で理解したわけではありません。

それを実践を行うときにはじめて理解というのは本物になるのです。

よく真理などもそうですが、理屈で理解してそのままにする人もいますがそれでは言っていることの半分しか分かっていないということになるのです。本当にその人が言っていることを理解するには同じ実践を積み上げるしかありません。

そうしてみてはじめて、その真理やその意味、その意義、その夢、その価値などを肚におとし消化することができるように思うのです。

先日、仕事と生活を分けないという話をしましたがこれも同じで分けているということは生き方と働き方という意味が分かるはずがないのです。もともと生活と仕事ということもどこからが仕事でどこからが生活なのか、人は一生をかけてもっとも長い時間をかけているのが仕事の時間とも言います。それは明らかに生活の一部であって切り離せるようなものではありません。

そして生き方を換えることは働き方を換えることなのだから、それが矛盾しているのではそれでは換わることができません。自分にとって都合のいいように変えようとするのは素直な姿ではなく、善いと理屈で感じたことはすぐに実践して近づいて深めてものにしていくという取り組みそのものが丸ごと全体で理解していくことになるのです。

先日、若杉友子さんの講演の中で印象に残ったものの一つに「ここに来て私の言うことを聴いて実践しないのなら時間の無駄です。私もやると決める人にしか話さない。」と言っていました。

何でもそうですが自分の生活に同時に取り組んでその中で理論と実践を深めていく、求めていく気持ちが何よりも尊いのであってそのために共に学ぶということの歓びも味わうことができるように思います。

相手と自分との分けて、自分はこういうタイプだからとか、自分はまだこうだからとか、自分はやらない人だからとか、そういうのを事前に決めて固執していたら理屈っぽくなるばかりでもともとの正しいことにも気づけないように思います。

感情がコントロールできないのは、実践が足りていないか理論が立っていないかのどちらかになっているようにも私は思います。理論と実践を取り組む中で、本当のことが理解できるからこそ長い年月を懸ける価値に気づけるように思います。

論語読みの論語知らずにようにならないよう、論語の三省にある習っていないものを伝えなくていいように気づいたことに負けないくらいの猛烈な情熱の実践で渾然一体にいたいと思います。

発酵し楽しむ~求道の心~

先日、千葉の自然のままのお酒を醸造している寺田本家を訪問することができました。

先代の著書、「発酵道」というものを拝読し生き方が似ていたところから関心を持ったものです。人は道から外れていると色々な体験をします、それでもと求道するからこそ敢えて大変な方へと飛び込んで自らその道に気づくようにできているように思います。

私の場合も、善かれと思って取り組んだことがその通りにいかず人間関係に悩み、仕事に悩み、善悪に悩み、結局は自分の方が間違っていたと素直に反省するに至ることがありました。

求めていけば与えられるというのは真実で、どんなことでも自分が求めていけば必ずそれが道につながっていくようにも思うのです。そしてその道に出会えば、その道を歩むことを楽しもうと精進していくこともまた人生であるように思います。

さて、発酵の話になりますがご当主ともお会いし訪問した時にも言われ改めて深く実感したことがあります。そのご当主の御挨拶の中にこのように書いてあります。

「寺田本家で無添加でお酒を造るのも無農薬の原料米を使うのも、そのほうが楽しいか らです。手造りにこだわるのも、造っている僕たちがそのほうがワクワクと楽しいからです。正しいことよりも、楽しいことを選ぶと、自然と本物へと近づいていくってことですね。発酵するって楽しいほうへどんどん変わっていくことなのかも知れません。」

正しいことをしようとすると自分が窮屈になり価値観に縛られ、全体も歪んでいきます。誰かが正しいと言い出せば言い出すほどに正しくないものが顕われ、それが邪魔をしてまた素直でなくなっていくように思うのです。

しかし本来、自分が楽しいと思うものは道につながっているものでそれを究めていくことがもっとも自分に合っているということになるように思うのです。

楽しくなくても正しいのだからと遣っている人たちはたくさんいます。これは今の仕事をみていてもそうかもしれません。

ただ楽しいというものは、自分の中から込み上げてくるもので何度も楽しい楽しいとつぶやくのは自分の求めている道につながっているという実感のことであろうとも思います。

私は保育道のお手伝いをしながら、その道が広がっていくことを祈ってやみません。
そしてそれは正しいからとやっていたことが多いように思います。

しかしここにきて、これは楽しいからだと思えるようになっています。
それは共に歩んだ時間が何よりも幸せであったといつ回顧しても思えるからでしょう。

子ども達のためにも自分から発酵し続けるため、求道し大好きなことをしようと思います。
ご縁に心から感謝しています。

いのちの糧~生態系の循環~

昨日、千葉にある藤崎農場さんを訪ね不耕起栽培の実践を拝見し学ぶご縁を頂くことができました。

25年もの間、一度も耕したことのない田の土は触るととてもトロトロでその中ではまだたくさんの生きものたちが活動を続けていました。この時期は冬期潅水をして水をはっているのですが藻類、浮草、貝類、イトミミズなどが活動して代謝したものが沈殿し独特な土の甘い匂いを醸していたのが印象的でした。

生態系の話では、人間が全部を取り過ぎないということで生きものたち全体が食べられるようにと配慮してお米の育成をその中心に据えている謙虚な姿勢にとても感動しました。今は、一部の生きものは人間都合で要らないとして農薬をつかったり肥料を増やしたりと都合都合でやろうとする農業が当たり前ですが、それでは長期的に継続することはできません。そのことから、あらゆる地球上の種が絶滅の危機に瀕しているのです。

本来は自分だけで搾取するのではなくみんなのことも思いやりながら同時に取り組むということが自然の共生です。かつての私たちは自然に棲み決してそれを独占し全部を取ることはしませんでした。それでいてお互いに恩恵を享受し合い、助け合い、響き合い、見守り合い、今までいのちを共にしてきたのです。

今回の出逢いを通して本来のもっと目には見えない小さな存在や、弱いと思われるような微かな存在を大切にすることが生態系そのものをもう一度正しい循環に導くのだと確信したのです。

生態系は決してピラミッドでできているわけではなく、私は〇でできていると思うのです。つまりは球体であるというのはそれがどれだけ長いスパンで観るのかで決まるからです。長い目で遠い心でみれば全部はつながっていて必ず此処に戻って来るということです。

出したものが帰って来るという真理も、因果応報もそれはすべて長いスパンで語られる言葉です。自然は偉大で悠久、つまりおおきくゆっくりだからこそ、その一番の元になっている小さなもの微かなものを大切にしていくことが大切なのです。

天の道理にしたがって謙虚でいる藤崎先生の姿は人柄からも感じられこれは以前お会いした自然農の川口先生も同じような姿をみせていただきました。天の道理にいる人たちのあの穏やかな様子に自分の憧れもありかんながらの道の先覚者であることを知り本当に嬉しくなりました。

それと同時に、日々に自分の道を楽しみまで昇華させ往く年に向けて創意工夫と学びの姿にも経営者として多くを反省する機会になりました。今の道を楽しむというのは、着実に少しずつ実績をつくりながら広げていくのだというお言葉には勇気をいただきました。

人の道理にしたがって創意工夫をして已まずに精進し続ける姿に、道を楽しみつつしっかりと利益と収量を保持していくという経営の豊かさも感じてまた嬉しくなりました。

人は謙虚と素直があれば、天道地理の自然の道理に沿っていくことに実感を深めます。

今回の体験を通して、私たちのいのちを通して生み出させていく代謝物を次のいのちの糧になるよう、今回教えていただいたことを、実践に換えて子ども達へと継承していこうと思います。

貴重なお時間とご縁を有難うございました。

自然は私たちの先生

私たちは運が善くなる生き方というものを知ろうとしますがそれが何かというとバランスであると思います。

このバランスというものは、どれだけ自分がシンプルであるかというものと同じで自分がどれだけ素直のままの自分でいるかということをいいます。

人は自分の都合を優先し様々な問題を招いているともいえます。

つまりは余計なことをするから余計なことがおき、どこが中心であったのかと悩むのです。そうやってまた反省をしてもとのバランスに戻す。この元のというのは、本来のシンプルな自分に戻るともいい生まれる前からそのままの姿のものに近づいていくことをいうように思うのです。

この生まれる前からの姿というのは、今の世の中では刷り込みの教育や社会システムの中で価値が低いと思われているものですが本来はそれに近づくことが自然で運が善いというのもそういう循環の中に身をおくことで安心できることをいうのです。

運が善いと感じるのは、周りの自然循環のままに存在がスパンと当てはまっているからです。

どの時代もその時代時代に人間の都合によって自然から離れ真実が歪みおかしな世の中が出現すればそれをまた元に戻す自然の力がはたらいてきます。

そうやって私たちは何度も何度も素直でありなさい謙虚でありなさいということを自然に学ぶように思うのです。

本来の姿、自分が謙虚であれば真心のままに実相が世の中を照らすようにも思います。

自分の都合での偽りの謙虚さではなく、生まれる前から持つ素直さともいう謙虚さを忘れない子どものままでいればいつも自分を正直に素直に周囲にさらけ出せるシンプルな社会を形成していけるように思います。

私たちが謙虚さを忘れなければいつも自然は私たちの先生です。

お天道様の見守りの中で今日もまた素晴らしい人たちのご縁に出会い、イキイキワクワクドキドキと楽しんでいきたいと思います。

 

正しいこと~真実~

正しいという字は、一と止まるの組み合わさったものでできています。この一というのは、中庸のことでそのバランスにあるということだと思います。

この正しいというのは、よく自分にとって都合の善いことを正しいと思い込んだりしています。それは例えば、今までの成功事例とか、その人の価値観とか、世間の常識とかそういうものをそれぞれの自分の都合で正しいことにしてしまうのです。

本来の正しいとは何かと言えば真実のことです。

それは合っているとか合っていないとかではなく、そのものであるということ。つまりはまぎれもない事実は誰かによって正しいではなく、あるがままの自然の姿です。

素直になれば世の中の実相というものは感情を交えずに見通せます。それはまるで自然に善悪がなく、食べて食べられるように、また栄枯盛衰、因果応報もそうですが起きている全ての出来事の真実を自分の感情を交えずに真実のままに捉えることができるのです。

人は自分を中心にそれぞれの見方というものががあります。

こうなることが正しいと言っている人たちで世界は溢れかえっているとも言えるのです。

国家間の争いもそうですし、世の中の競争も、そして身近な組織や身近な人間関係も同じように、みんなそれぞれの違いを認められないのはこの真実だと思い込んでいる自分の中にある「正しいという名の歪んでしまっている」ものに気づかないからのように思います。

そしてこの真実には、天の道理、人の道理といった両方の正しいがありどちらにも偏れないからそこに止まることが難しいともいえます。つまりは、こっちは正しくなればこっちは正しくないという発想の中で分けようとすることが正しくないということになるからです。

本来は分かれていないものを分かれていないままに観通すのは自然を観察するかのように矛盾を気にせず真実を丸ごとありのままに捉えていく必要があります。それは素直に五感で観るときのように、全体をあるがままに感じているようなときの正しさのことです。

これを直観とも言いますし、そう定義しています。

真実を観通すには直観がいるように私は思うのです、そしてそれができるのを「観主」と定義しています。私は自然を通してかんながらの道を往くものですが、道を迷わないというのはこういう生き方ができるときにこそ顕現するように思います。

至純に生きるというのは、そういうものをあるがままに受け容れるときにできるように思います。正しいことを正しいままに感じて、正しいことができるようにと祈ることは尊いことであるのだと日々に実感しています。直観を磨くというのは、そういう真実をバランスを磨くということです。

また懐かしい人に会いたくなりました。
今年もあと少しですが、日々の太陽とともに暮らしていきたいと思います。

同じということ

同じと思うことにも色々な同じというものがあります。

例えば、自分と同じことをしていないと相手はダメなのだと思う時の同じという使い方があるとします。この皆と同じでないといけないという時の同じというのは、自分の正解が一つでその正解に無理に周囲を合わせていこうとするときの同じという意味です。

この時に使われる同じというものが実際は教え込まれた刷り込みの張本人で、もともとは正解というものはその人その人の人生においてやりたいことがあるのだからそれはその人のやりたいことが本来の正しいことであるのです。

もともとはじめから違うものを同じにさせようとするのは、同じでないと正しくないと思う所からはじまります。これを同じに合わせようとすると一つの価値観で従うものだけを育てるようになります。よく聞く話で親が子どもに自分と同じ能力を要求するのも、子どもも親と同じでないといけないと必死に思い込んで自分をなくしていくのもこの同じということへの認識によるものです。

本来の同じというものは、もっと原則や法理に近いものでもっと万人に共通するものがあると思えるようなことを同じであるというものだと思います。例えば、因果応報とか人類皆兄弟とか、生老病死とか、さらには仁義礼智信、愛とか、共通しているものが同じであるというのが同じというものの在り方のように思います。

同じでなければと無理に同じではないものを同じにしようとするところに人間関係の歪が発生するように思うのです。同じくしていると安心するのは、自分もそれで正しいことだと思い込みたいからのように思います。

しかし実際は、生まれた場所も願いも境遇もまたその使命も異なるのだからその人のやりたいこと正しいことはその人の事を尊重し見守ることでお互いが異なっていても同じものがあることをはじめて共有することができるように思うのです。

そしてやりたいことがはっきりしてきたとき、そこに同志に巡り合えたり、パートナーとして契りを交わしたりといった出会いに感動しより人生を共にする仲間に出会えるように思うのです。

何を同じと定義するかで人生の幅も器の広さも変わっていくように思います。

もっと普遍的なところで同じところを観るようにしていくことが安心できる関係を広げていけるようにも思います。同じにするのではなく、同じところを探していくこと、それは異なっていてもそれもその人そのものと丸ごと認めていくことから相手のことを自分と同じく信じることができるように思います。

信の実践には、そのものを素直にそのままに観ることが肝要に思います。

金子みすずに「みんな違ってみんないい」の詩がありますが、私なら「違っているからみんないい」、「みんなも自分と同じく違っていい」、「違うことはみんな正しい」と感じています。

しかし幼少期の刷り込みはとても深く、どうしてもそれが強く惹きあってしまいます。

もしも気づいたならすぐに反省し、そこからまた新たな発見を伝え広げていきたいと思います。
子どもたちが自分の人生を素直に受け容れ、自分のやりたいことややり方が尊重される世の中になるよう自然の姿を体現していきたいと思います。

人情

先日、ある長屋のイベントにご縁がありその意味を深める機会がありました。

最近はシェアオフィスとかシェアルームとか、繋がりや絆を深める共同生活を中心にしたコミュニティが人気が出ているようで市場でもビジネスチャンスと捉えている人たちがいるようです。

震災以降、もう一度システマチックな環境ではなく複雑に人と人が絡み合いつながりあった関係から環境をつくり絆から復興をはじめようと様々な取り組みが新しくはじまってカタチになってきています。私にとっては複雑な関係というよりもシンプルな人と人との本来のシンプルな共同生活に回帰しようといった流れがでているのだと思います。

もともと長屋というのは箱もののことを言うのではなく、そこには女将を中心に様々な人たちが集まった生活コミュニティのことをいうのだと思います。オープンな関係の中でお互いの人情が行き交う社会生活空間ともいうのでしょうか。

これはお互いに人情が溢れおせっかいで優しい人間味のある人たちが寝食を共にしつつ、共にお互いの人生について絡み合って共に生き、助け合い見守りあうという共同体のことをいうように思います。

もともと人がいろいろと集まって話をすれば、同じような課題、同じような困難、同じような感動、同じような人生の起伏を共有するものに気づけるように思います。その中で、解決しないことを互いに井戸端で語り合ったり、時折は落ち込んでいる人をみたら話しかけて一緒に涙したり、嬉しいことがあっていたら共にお酒を酌み交わしたりといった共同生活の場で生きるということを楽しんだように思うのです。世話好きなのも人情からでそういうおせっかいこそに意気を感じて互いに温かな様子を分かち合ったのでしょう。

そしてその長屋の女将というものはその中でも一番人情味があり、何でもついほおっておけないほどの温かみのあったものではなかったかと思います。もちろん、全部がそうではなく家賃収入で生業をたてているのだから色々とあったでしょうが、皆が楽しく暮らしていけるようにと願い環境を用意し自らも共に生活を潤していたのがその役目だったのではないかとも思うのです。

今の時代は、公私をわけて自分のことは他人には言わずあくまでシステマチックに割り切り、人情は要らないし気も合わなくても仕事なのだからと色々なことを隠そうとしてコミュニティを避けようとしている人も増えています。人生にとってとても長い時間共にいる人たちとの関係が希薄だというのはとても人情からみても寂しいものです。今ではメンドクサイからと自他にとってあまり影響のない表面上だけの話であったり、もしくは自分の都合でのみ自分を知ってくれればいいと関係がクローズしている事の方が多いように思います。

自分からオープンでいるというのは、人情を否定しない、人間味があっていいではないかといった互いの弱みも強みもさらけ出す人間同士の素直な関わりとつながりがあるということに他なりません。

そして人情だけではなく、そこに義理が必用なのはお互いの社会を維持するための礼儀がある。つまりは約束を守り信義を貫くといった共同生活の自立もあったようにも思います。

義理があって人情がある。
これは人間独特の素直で素晴らしい徳ではないかと思うのです。

今は無難に仕組みで波風を立てないようにとし何かと人情を否定されやすい時代ですが、もともと人はみんな義理人情をもっているのですからそれを引き出しやすい環境や状況を共同生活を通して体感していくことがオープンな社会の実現につながるように思います。そして安心して共に生き幸せにいられるのもそういう空間の配慮のように思うのです。

共同というのは、全ての共有、共生そのもののことでもあります。
そこに人情味のあることを善とする素直で粋な心意気があったということでしょう。

自らが皆ともっと共有していこうとすることが、長屋の本質なのかもしれませんね。
今度、江戸に残っている長屋を視察しつつまた人情についてまとめてみたいと思います。

自燃力の本質

自燃力ということについて自分なりに深めてみます。

もともと自燃というのは、自らが自らのいのちを自ずから発揮させていき代謝することです。
つまりは自分の力を使って何かを行うということに他なりません。

それは自らの持って生まれてきたいのちや才能、そのアイデアや体験すべてを活かして世の中のために貢献するために行う力ということです。

そしてこの自燃というのは、いつも誰かに言われてから動いていたり自分が別にやりたいわけでもなく楽しいとも思わなくても動くのとは違います。人は自分がそれを他人から言われるからやるのか、もしくは自分の天命がどうなっているのかその天命に恥じないように日々に自分を遣い切って生きたいと思っているのかでその自分の活かし方が異なってくるように思います。

仕方がなくてもやるというのは、その人生の主体は外因によって遣りたくもないこと、思い通りにはならないことに対する不平や不満を抱くことになるのです。しかしよくよくじっくり観照してみると本当は自分の思い通りいかなくても自分が都合よくやりたいと思えなくもこれが何につながっているのか、そしてこれから何を自分が学んでいるのか、そしてこれはきっと自分の使命に直結していることを天が与えてくださっているのだと絶対受身になることで絶対主体といった自発的自己発揮、つまりは自燃をしていくことができるように思うのです。

私の言う自燃は発酵と同じ、そしてこの発酵の本質は自ら腐らないということです。ここでの腐るのはいつかは何かで燃えるだろうを期待して自分からいのちを今に使わず誰かに何かに期待するという生き方。どうせ燃えるなら自分から燃えたい、いのちを燃やしたいと自分から燃えるといった自燃ではないからということを言っています。

自燃というのは、自らそれをやろうとしているか、自らそれをやりたいか、自らそれを楽しんでいるか、この楽しむというのはどこか楽をしたいからやるのではなく、心底大変でも自分が楽しい方を選択し続けていく、そして全身全霊で打ち込み自分の可能性を広げお役に立てることを歓んでいくことに他なりません。

もちろん少しでも流されたり受け身になれば、なんでこんなに仕事が多いのだろうとか本当は自分がこういうことがしたくないとか言い訳をしたくなるものでしょうが実際は仕事が多いのはそれだけお役に立てるチャンスがある、そしてしたくないのはまだまだ行動をしていく余地があると苦しみになるものを楽しみに換えていくことで発酵を続けることができるのです。物は考え方と観方で決まるということならやはり情熱と熱意で自燃発酵させる方を選ぶかどうかが重要だと思うのです。

そして私から観れば正確には結果や成果というものは、その発酵した代謝物のことです。
いのちの活動の痕跡や軌跡、形跡のことです。

どのようにそのプロセスを楽しんだか、どのように腐らずにワクワクドキドキ取り組んだか、その代謝物として成果がぐんぐんと顕われていきます。それは発酵にだけによらず発達も等しく、そのものが一生懸命に生きて楽しんだ形跡には確かないのちの煌めきの光が残存するからです。

人間の幸せというものは、別に世間のいうような誰かの評価や豊富な財産、名誉などといったもので得られるとは思えません。そうではなく、本来の自分の持って生まれたその使命やいのちを存分に御役に立て燃え尽きたときに周囲にご苦労様といってもらえることのようにも思うのです。

何かの御役に立つというのは共生するということですが、それが活きる本質のように思います。自燃するということは、自分で生きるということ、自立するということは、自分で立つということ、こういう当たり前のことですがネガティブに捉えるの人も多いのですが本来はそうではなくどれも自然の姿であろうと思います。

教育や今の社会に刷り込まれている人たちがたくさんいるからこそ、自分たちの存在価値を感じています。自燃力を存分に発揮し、子ども達のためにしっかりとブクブクシュワシュワ発酵を楽しんでいきたいと思います。

自燃力

何かを変えようと思う時、自分で決めるという時にその側面として必用なものがあるように思います。

それは何かと言えば、情熱や熱意のように思います。

例えば、自分を願うものに変わりたいと人は誰しも思っています。変貌を遂げて、新しい自分になりたいと思う時には決心がいるのです。そしてその決心とは、そのために素直に反省をして自分がこれから改めて何かをやると決めることのように思います。

そしてその何かをやると決めただけでは動かず、大切なのはその決めたことにどれだけの情熱と熱意を注ぐのかということになるように思います。それはどんな小さなことだろうということでも同じく、早寝早起きであったり、掃除をすることであったり、決めた日課を行うことだったり、挨拶をすることでも、決めたとしたことにどれだけ全身全霊の情熱と熱意を毎回傾けたかということが大事なことになるのです。

継続や持続するということは、それだけ長い時間燃え続けているものを自分が維持している。つまりは決めたことを暖めて薪をくべ続けて燃やし続けているということをいうのです。いのちも同じく薪を暖めて完全燃焼することで澄み渡った灰になって燃え尽きることができるように思います。

炭で例えるならば、最初の火種に薪をくべどんどん炎が起きてくるまでは必死に精進しその後は火を絶やさないように常に注意深く気を配り燃やし続けるのに似ています。誰かから燃やされる火ではなく、自分で燃やす火こそが本来の自燃ということになります。

自然で生き残るには、自燃で生きることが肝要になるのです。

自燃力というのは、このように自ら情熱を注ぎ傾けその火を暖め燃やし灰になるまで絶やさない力のことをいいます。誰にせよ、その太陽のような情熱はいのちの中に備わっているように私は思います。

些細なことでも情熱を懸ければそれが偉大なことの実現になり自分を燃やしていくことができます。

出来事というのは、自分の思い通りになろうがなるまいが、天命に従って次々に事件は起こりますし起きてきます。それを誰かのせいにや外因によって消すようなことにせず、素直に受け容れて常に自分自らが燃えていく、否、自分自らが情熱と熱意を全力で懸けることで変化というものを興すように思います。

自己改革とは、情熱と熱意があってはじめて立て直せるように思います。

子ども達にも自然の中で自燃するということ、やりたいことを遣る時の力、遣り切る時の力、燃やして燃え尽きた時のいのちの達成感、そういうものを感じてもらうようにまず自らが自燃力を高めていこうと思います。

正食正活

昨日、無事に大豆の収穫を済ませ種どりと発酵食品をつくる準備をしています。

作物と一緒に生活をしていくことは、自分が自然との共生によって存在していることを理解し安堵でき自ずから感謝というものを実感することができます。

作物をつくらずして食べるということは、実は大きな勘違いを生み出しているのかもしれません。自分の手と足と体と心で、お米を育て麦を育て大豆を育て穀物を食べるということを選び今まで自然と共生してきたからこそ民族の中にある生き残るというシンプルなことを理解できるように思います。

穀物を選んだことで私たちは共生を選び、肉食を選んだことで征服を選ぶ、その歩んできた道のりの違いに本来の葛藤がまだ太古の昔から続いていることを実感します。きっとその昔、生き方を二分化して生きようとしたことがこの時代にもまた影を落としているように思います。

歴史を学び、歴史から何を教訓にして生きていくのか、どの時代にも求められる人道の叡智のように思います。

先日も生き残りというと結構重たい言葉だと言われましたが、もともと今のように裕福でなければ生き残るための戦略などというものは当たり前に考え抜いていたはずです。平和ボケというか、当たり前というのはマンネリ化するので何が当たり前でないかをよく見直すためにも当たり前でいないことを忘れないような生活をすることだと思います。

さて、昨日はその他にも漬物などを作りました。

大根を干し、白菜を天日干しし、その後は塩で漬けこむのです。すでに今朝から確認すると乳酸菌がブクブクシュワシュワと発酵をはじめています。この発酵というものは、もともと在ったものを御互いが活かしあいその代謝したものとして生まれる自然現象でそのものを陰陽中和し自然のものへ還元するのです。

偏ったものを中和していくというのは、御互いが違いを持つ関係がまるで一つになって新しい生命を生み出すようにまるで一円融合されるものに換わるのです。それぞれが活性化するというのは、この新しく融合する中和には必要不可欠です。

今年は幸運でこの発酵に出会った御蔭で色々な法理を学びこみ、五感も歓んでいます。

今では味が出るや味がある、味わい深いのはそこに確かな発酵、つまりは代謝した形跡があるからだと感じます。ひょっとすると、私たちはその軌跡や形跡を味わいそれを自分のものとして取りいれさらに体にも心にも魂にも還元しているのかもしれません。

食べるというのは、そもそもが中和のことだろうと今では確信します。

よく正食と言われますが、この正しいという意味にはそういうことがあるように思います。

生活をシンプルにすること、正活でシンプルに自分の天命を活かすこと、どれも身土不二につながることかもしれません。実践していく中で気づいたことは、子ども達のために活かし取りいれ自然を近くに運び続けたいと思います。