正食正活

昨日、無事に大豆の収穫を済ませ種どりと発酵食品をつくる準備をしています。

作物と一緒に生活をしていくことは、自分が自然との共生によって存在していることを理解し安堵でき自ずから感謝というものを実感することができます。

作物をつくらずして食べるということは、実は大きな勘違いを生み出しているのかもしれません。自分の手と足と体と心で、お米を育て麦を育て大豆を育て穀物を食べるということを選び今まで自然と共生してきたからこそ民族の中にある生き残るというシンプルなことを理解できるように思います。

穀物を選んだことで私たちは共生を選び、肉食を選んだことで征服を選ぶ、その歩んできた道のりの違いに本来の葛藤がまだ太古の昔から続いていることを実感します。きっとその昔、生き方を二分化して生きようとしたことがこの時代にもまた影を落としているように思います。

歴史を学び、歴史から何を教訓にして生きていくのか、どの時代にも求められる人道の叡智のように思います。

先日も生き残りというと結構重たい言葉だと言われましたが、もともと今のように裕福でなければ生き残るための戦略などというものは当たり前に考え抜いていたはずです。平和ボケというか、当たり前というのはマンネリ化するので何が当たり前でないかをよく見直すためにも当たり前でいないことを忘れないような生活をすることだと思います。

さて、昨日はその他にも漬物などを作りました。

大根を干し、白菜を天日干しし、その後は塩で漬けこむのです。すでに今朝から確認すると乳酸菌がブクブクシュワシュワと発酵をはじめています。この発酵というものは、もともと在ったものを御互いが活かしあいその代謝したものとして生まれる自然現象でそのものを陰陽中和し自然のものへ還元するのです。

偏ったものを中和していくというのは、御互いが違いを持つ関係がまるで一つになって新しい生命を生み出すようにまるで一円融合されるものに換わるのです。それぞれが活性化するというのは、この新しく融合する中和には必要不可欠です。

今年は幸運でこの発酵に出会った御蔭で色々な法理を学びこみ、五感も歓んでいます。

今では味が出るや味がある、味わい深いのはそこに確かな発酵、つまりは代謝した形跡があるからだと感じます。ひょっとすると、私たちはその軌跡や形跡を味わいそれを自分のものとして取りいれさらに体にも心にも魂にも還元しているのかもしれません。

食べるというのは、そもそもが中和のことだろうと今では確信します。

よく正食と言われますが、この正しいという意味にはそういうことがあるように思います。

生活をシンプルにすること、正活でシンプルに自分の天命を活かすこと、どれも身土不二につながることかもしれません。実践していく中で気づいたことは、子ども達のために活かし取りいれ自然を近くに運び続けたいと思います。