先日、ある長屋のイベントにご縁がありその意味を深める機会がありました。
最近はシェアオフィスとかシェアルームとか、繋がりや絆を深める共同生活を中心にしたコミュニティが人気が出ているようで市場でもビジネスチャンスと捉えている人たちがいるようです。
震災以降、もう一度システマチックな環境ではなく複雑に人と人が絡み合いつながりあった関係から環境をつくり絆から復興をはじめようと様々な取り組みが新しくはじまってカタチになってきています。私にとっては複雑な関係というよりもシンプルな人と人との本来のシンプルな共同生活に回帰しようといった流れがでているのだと思います。
もともと長屋というのは箱もののことを言うのではなく、そこには女将を中心に様々な人たちが集まった生活コミュニティのことをいうのだと思います。オープンな関係の中でお互いの人情が行き交う社会生活空間ともいうのでしょうか。
これはお互いに人情が溢れおせっかいで優しい人間味のある人たちが寝食を共にしつつ、共にお互いの人生について絡み合って共に生き、助け合い見守りあうという共同体のことをいうように思います。
もともと人がいろいろと集まって話をすれば、同じような課題、同じような困難、同じような感動、同じような人生の起伏を共有するものに気づけるように思います。その中で、解決しないことを互いに井戸端で語り合ったり、時折は落ち込んでいる人をみたら話しかけて一緒に涙したり、嬉しいことがあっていたら共にお酒を酌み交わしたりといった共同生活の場で生きるということを楽しんだように思うのです。世話好きなのも人情からでそういうおせっかいこそに意気を感じて互いに温かな様子を分かち合ったのでしょう。
そしてその長屋の女将というものはその中でも一番人情味があり、何でもついほおっておけないほどの温かみのあったものではなかったかと思います。もちろん、全部がそうではなく家賃収入で生業をたてているのだから色々とあったでしょうが、皆が楽しく暮らしていけるようにと願い環境を用意し自らも共に生活を潤していたのがその役目だったのではないかとも思うのです。
今の時代は、公私をわけて自分のことは他人には言わずあくまでシステマチックに割り切り、人情は要らないし気も合わなくても仕事なのだからと色々なことを隠そうとしてコミュニティを避けようとしている人も増えています。人生にとってとても長い時間共にいる人たちとの関係が希薄だというのはとても人情からみても寂しいものです。今ではメンドクサイからと自他にとってあまり影響のない表面上だけの話であったり、もしくは自分の都合でのみ自分を知ってくれればいいと関係がクローズしている事の方が多いように思います。
自分からオープンでいるというのは、人情を否定しない、人間味があっていいではないかといった互いの弱みも強みもさらけ出す人間同士の素直な関わりとつながりがあるということに他なりません。
そして人情だけではなく、そこに義理が必用なのはお互いの社会を維持するための礼儀がある。つまりは約束を守り信義を貫くといった共同生活の自立もあったようにも思います。
義理があって人情がある。
これは人間独特の素直で素晴らしい徳ではないかと思うのです。
今は無難に仕組みで波風を立てないようにとし何かと人情を否定されやすい時代ですが、もともと人はみんな義理人情をもっているのですからそれを引き出しやすい環境や状況を共同生活を通して体感していくことがオープンな社会の実現につながるように思います。そして安心して共に生き幸せにいられるのもそういう空間の配慮のように思うのです。
共同というのは、全ての共有、共生そのもののことでもあります。
そこに人情味のあることを善とする素直で粋な心意気があったということでしょう。
自らが皆ともっと共有していこうとすることが、長屋の本質なのかもしれませんね。
今度、江戸に残っている長屋を視察しつつまた人情についてまとめてみたいと思います。