同じと思うことにも色々な同じというものがあります。
例えば、自分と同じことをしていないと相手はダメなのだと思う時の同じという使い方があるとします。この皆と同じでないといけないという時の同じというのは、自分の正解が一つでその正解に無理に周囲を合わせていこうとするときの同じという意味です。
この時に使われる同じというものが実際は教え込まれた刷り込みの張本人で、もともとは正解というものはその人その人の人生においてやりたいことがあるのだからそれはその人のやりたいことが本来の正しいことであるのです。
もともとはじめから違うものを同じにさせようとするのは、同じでないと正しくないと思う所からはじまります。これを同じに合わせようとすると一つの価値観で従うものだけを育てるようになります。よく聞く話で親が子どもに自分と同じ能力を要求するのも、子どもも親と同じでないといけないと必死に思い込んで自分をなくしていくのもこの同じということへの認識によるものです。
本来の同じというものは、もっと原則や法理に近いものでもっと万人に共通するものがあると思えるようなことを同じであるというものだと思います。例えば、因果応報とか人類皆兄弟とか、生老病死とか、さらには仁義礼智信、愛とか、共通しているものが同じであるというのが同じというものの在り方のように思います。
同じでなければと無理に同じではないものを同じにしようとするところに人間関係の歪が発生するように思うのです。同じくしていると安心するのは、自分もそれで正しいことだと思い込みたいからのように思います。
しかし実際は、生まれた場所も願いも境遇もまたその使命も異なるのだからその人のやりたいこと正しいことはその人の事を尊重し見守ることでお互いが異なっていても同じものがあることをはじめて共有することができるように思うのです。
そしてやりたいことがはっきりしてきたとき、そこに同志に巡り合えたり、パートナーとして契りを交わしたりといった出会いに感動しより人生を共にする仲間に出会えるように思うのです。
何を同じと定義するかで人生の幅も器の広さも変わっていくように思います。
もっと普遍的なところで同じところを観るようにしていくことが安心できる関係を広げていけるようにも思います。同じにするのではなく、同じところを探していくこと、それは異なっていてもそれもその人そのものと丸ごと認めていくことから相手のことを自分と同じく信じることができるように思います。
信の実践には、そのものを素直にそのままに観ることが肝要に思います。
金子みすずに「みんな違ってみんないい」の詩がありますが、私なら「違っているからみんないい」、「みんなも自分と同じく違っていい」、「違うことはみんな正しい」と感じています。
しかし幼少期の刷り込みはとても深く、どうしてもそれが強く惹きあってしまいます。
もしも気づいたならすぐに反省し、そこからまた新たな発見を伝え広げていきたいと思います。
子どもたちが自分の人生を素直に受け容れ、自分のやりたいことややり方が尊重される世の中になるよう自然の姿を体現していきたいと思います。