正しいという字は、一と止まるの組み合わさったものでできています。この一というのは、中庸のことでそのバランスにあるということだと思います。
この正しいというのは、よく自分にとって都合の善いことを正しいと思い込んだりしています。それは例えば、今までの成功事例とか、その人の価値観とか、世間の常識とかそういうものをそれぞれの自分の都合で正しいことにしてしまうのです。
本来の正しいとは何かと言えば真実のことです。
それは合っているとか合っていないとかではなく、そのものであるということ。つまりはまぎれもない事実は誰かによって正しいではなく、あるがままの自然の姿です。
素直になれば世の中の実相というものは感情を交えずに見通せます。それはまるで自然に善悪がなく、食べて食べられるように、また栄枯盛衰、因果応報もそうですが起きている全ての出来事の真実を自分の感情を交えずに真実のままに捉えることができるのです。
人は自分を中心にそれぞれの見方というものががあります。
こうなることが正しいと言っている人たちで世界は溢れかえっているとも言えるのです。
国家間の争いもそうですし、世の中の競争も、そして身近な組織や身近な人間関係も同じように、みんなそれぞれの違いを認められないのはこの真実だと思い込んでいる自分の中にある「正しいという名の歪んでしまっている」ものに気づかないからのように思います。
そしてこの真実には、天の道理、人の道理といった両方の正しいがありどちらにも偏れないからそこに止まることが難しいともいえます。つまりは、こっちは正しくなればこっちは正しくないという発想の中で分けようとすることが正しくないということになるからです。
本来は分かれていないものを分かれていないままに観通すのは自然を観察するかのように矛盾を気にせず真実を丸ごとありのままに捉えていく必要があります。それは素直に五感で観るときのように、全体をあるがままに感じているようなときの正しさのことです。
これを直観とも言いますし、そう定義しています。
真実を観通すには直観がいるように私は思うのです、そしてそれができるのを「観主」と定義しています。私は自然を通してかんながらの道を往くものですが、道を迷わないというのはこういう生き方ができるときにこそ顕現するように思います。
至純に生きるというのは、そういうものをあるがままに受け容れるときにできるように思います。正しいことを正しいままに感じて、正しいことができるようにと祈ることは尊いことであるのだと日々に実感しています。直観を磨くというのは、そういう真実をバランスを磨くということです。
また懐かしい人に会いたくなりました。
今年もあと少しですが、日々の太陽とともに暮らしていきたいと思います。