理論=実践

理論と実践というものがあります。理論では合っていると気づいても、それを実践しなければ分からないということです。

この「分からない」とは何かといえば、「分かれない」という意味でもあろうと思うのです。

全ての出来事は、渾然一体となっていて分かれているところがない。それを理論づけるために無理に境界線を明確にし分かったとなりますが、これは単に分かった気になっているわけで切り離される前の状態を丸ごと全体で理解したわけではありません。

それを実践を行うときにはじめて理解というのは本物になるのです。

よく真理などもそうですが、理屈で理解してそのままにする人もいますがそれでは言っていることの半分しか分かっていないということになるのです。本当にその人が言っていることを理解するには同じ実践を積み上げるしかありません。

そうしてみてはじめて、その真理やその意味、その意義、その夢、その価値などを肚におとし消化することができるように思うのです。

先日、仕事と生活を分けないという話をしましたがこれも同じで分けているということは生き方と働き方という意味が分かるはずがないのです。もともと生活と仕事ということもどこからが仕事でどこからが生活なのか、人は一生をかけてもっとも長い時間をかけているのが仕事の時間とも言います。それは明らかに生活の一部であって切り離せるようなものではありません。

そして生き方を換えることは働き方を換えることなのだから、それが矛盾しているのではそれでは換わることができません。自分にとって都合のいいように変えようとするのは素直な姿ではなく、善いと理屈で感じたことはすぐに実践して近づいて深めてものにしていくという取り組みそのものが丸ごと全体で理解していくことになるのです。

先日、若杉友子さんの講演の中で印象に残ったものの一つに「ここに来て私の言うことを聴いて実践しないのなら時間の無駄です。私もやると決める人にしか話さない。」と言っていました。

何でもそうですが自分の生活に同時に取り組んでその中で理論と実践を深めていく、求めていく気持ちが何よりも尊いのであってそのために共に学ぶということの歓びも味わうことができるように思います。

相手と自分との分けて、自分はこういうタイプだからとか、自分はまだこうだからとか、自分はやらない人だからとか、そういうのを事前に決めて固執していたら理屈っぽくなるばかりでもともとの正しいことにも気づけないように思います。

感情がコントロールできないのは、実践が足りていないか理論が立っていないかのどちらかになっているようにも私は思います。理論と実践を取り組む中で、本当のことが理解できるからこそ長い年月を懸ける価値に気づけるように思います。

論語読みの論語知らずにようにならないよう、論語の三省にある習っていないものを伝えなくていいように気づいたことに負けないくらいの猛烈な情熱の実践で渾然一体にいたいと思います。