人にはそれぞれに道があり、その人の生きる道があるように思います。
このブログも5年前や6年前の記事を読んでみると、自分の道はそこにはあってそれが次第に明らかになってきているように思えるからです。
世の中には、正しいとか正しくないとか、法則とか原理とかもあります。
天には道があり、人には情があります。
そのどちらを優先するかといえば、そのどちらにもバランスがあってその割り切れない中で自分というものを確かめていく中で道は顕現し、道を確かめ、道を歩むのであろうとも思うのです。
矛盾することばかりの日々の中で、その全てが善いことだと認められるには何度も何度も道を歩んで往く覚悟もいただけこの世に別れを継げるまで続きます。そしてその後も、その道はまた別のものたちに受け継がれ太古から歩まれているものが永遠となっていくのです。
その道は、それぞれに異なりますが全ては天人合一、道情合一のようであろうと思います。
一見、それが同じになるまで歩む道の先に何があるのか分かりません。
ただ、それに惹かれるのは道があるから生きていられるとも感じるからです。
道に対して、論語の一説で大学を記した曾子に好きな言葉があります。
「曾子曰く、士人はおおらかで強くなければならない。任務は重くして道は遠い。仁をおのれの任務とする、なんと重いじゃないか。死ぬまでやめない、なんと遠いじゃないか。」
道を歩むということにこの任を得ていると実感することに嬉しさや面白さを感じてしまうのです。
そう考えると、私も身のまわりに尊敬する方々、大好きな方々はそれぞれの座右を持っています。その座に道に刻まれた言霊があるように思え、何だか懐かしくまた温かく有難く感じるのです。
かんながらの道は遠く、そして大和魂の任は重い。
そうやって、不惑に近づけるよう来たものを正しく受け取ってまた自問していこうと思います。