観えるという行為は、一般的には眼で行うようなものではありません。
よく心眼などということもありますが、これは感覚で掴んでいることのように思います。
先日、植物のことで深めているともともと目はついていないはずの植物が季節を見通し、未来を見通し、周囲の共生を見通し、こちらの関わりを観通しているかのような感覚を覚えることがありました。
例えば、神社の大木などもそうですが確かな見守りを感じることがあります。それはその木を触っているときにも感じますし、音を聞いていても感じることがあります。つまりは、五感というのはすべてを観るという行為に繋がっていると私には思うのです。
眼で見るものも、正しく感覚を澄ませば眼で観るということになるのだと思います。
そしてそれと等しく、耳で聴く、匂いを嗅ぐ、舌で味わう、体で触るというように大切なことはその感覚を通して観ていくように思います。それを私は直観で観るという呼び方をすることもあります。
観るという行為は、自然そのままの行為であるがままに混ざり合ったものを混ざり合ったままに観得るということです。分けないという言い方だと分かれてしまう気もしますが、そうではなく自然のままに観得出すという言い方の方がいいように思います。
不自然であるということの感覚は、頭で間違っていると思うよりも正確でそれは全体から観ればおかしなことを行っているという気づきと発見であるとも言えます。
自ずからそれを確かめるには、常に自分を立て直し素のままで平穏で居ることができるどうかによるのだとも思います。それは澄ませるという言い方であり、清らかにするという言い方、もしくは明らかにする、素直になる、つまりは真心に戻るということを言うのです。
人は真心が出ないのは、どこかで自分の感情に左右され物事の実相が正しく観えないことからはじまるように思います。私の場合も、都会に来て数日人との関わりばかりのなかで都市のシステムに暮らせば次第に感覚は鈍っていきます。そうならないように心に確かなものを持とうとしますがまだまだ修養が足りず精進の日々です。
しかし感覚を研ぎ澄ませていくことは、創意工夫と鍛錬でできるように思います。日々の変化に対して、常に心を新たに観続けることを「自ら強めて息まず」で歩みたいと思います。