忠義

今年は義について確認することが多かったように思います。

特に源義経、木曽義仲、楠木正成、そして上杉謙信と義についての武将から忠義ということが何かということを学び直すことができました。

それぞれが天に対して定めた生き方そのものを貫くときに顕われてくるのがこの義です。相手が比較や人ではなく、天であるからこそより凛とした厳しい姿勢で自分を尽くしていくことがどれだけ純粋な魂であるかを憶えるのです。

これらの人達から生き方を照らして学ぶというのはとても有難いことで、自己観照するときに自分がこの人だったらと考えるそれだけで自分がどうあることがより物事の実相を正しく掴むことができるかを学ぶ事ができます。特に上杉謙信はとても自己観照していくことに相応しく思うのです。上杉謙信の思想や実践、そこにはとても共感するものがあります。

例えば、謙信に有名なものに「敵に塩を送る」ということがあります。

これを新渡戸稲造は武士道でこう書きます。「聞く北条氏、公を苦しむるに塩をもってすと、これきわめて卑劣なる行為なり、我の公と争うところは、弓矢にありて米塩に非ず、今より以後塩を我が国にとれ、多寡ただ命のままなり。」と。謙信は戦は戦、それで塩を止めて民衆を苦しませることはならぬと、自分は卑怯な方法で戦うことはしないと述べるのです。正々堂々と、公平に天に忠義を照らして常にその瞬間を判断していくのです。

この上杉謙信のことを共に戦ったものたちや家臣はこう語ります。

武田信玄の場合は死を前にして、「あのような勇猛な武将とことを構えてはならぬ。謙信は、頼むとさえいえば、必ず援助してくれる。断わるようなことは決してしない男だ。この信玄は、おとなげなくも、謙信に依託しなかったばかりに一生、彼と戦うことになったが、甲斐国を保つには、謙信の力にすがるほかあるまい」と勝頼に言い残し、菊姫が上杉景勝と婚姻します。

そして北条氏康からは、「信玄と信長に表裏つねなく、頼むに足らぬ。ひとり、謙信だけは、請け合った以上、骨になるまで義理を通す人物である。だから、その肌着を分けて、若い大将の守り袋にさせたいと思う。この氏康が、明日にでも死ねば、後事を託す人は謙信だけである」として謙信を認めています。

そして関東の知勇兼備の名将、太田資正からは、「十にして八つは大賢人、残り二つは大悪人である。彼は勇猛・無欲で清浄、器量が大きく正直である。物事を明敏に判断して、しかも慈悲深く、もし人から諌めららればこれをよく聞き入れた。ただ怒ることが多く、心違いをしたこれが欠点であろう。ともかく謙信は善所が多い稀にみる名武将であった」と、その謙信の人柄について語られます。

上杉謙信を自己観照すると純粋に天に殉じて義を貫いたその生涯に勇気と愛をいただけるような心地になります。時代がどのようであったとしても、義の生き方は普遍であるようにも思います。

今年は辰年、私にとってはとても大切な節目の年でした。忠義は常に天と人との純粋な関わりがあり、はじめて顕われることを実感します。最後に、上杉謙信が春日山城の壁に書いた回訓を紹介します。

「運は天にあり。鎧は胸にあり。手柄は足にあり。 何時も敵を掌にして合戦すべし。疵つくことなし。死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。家を出ずるより帰らじと思えばまた帰る。帰ると思えば、ぜひ帰らぬものなり。不定とのみ思うに違わずといえば、武士たる道は不定と思うべからず。 必ず一定と思うべし」

これは意訳ですが、人は運でどうこうを決めるのではなく常に運は天に任せて、どれだけ自らの人事を尽くすかということを戒めるということだと思います。人はすぐに何かあると誰かや運のせいにして言い訳をしますが、自らに課した人事が果たして天に叶うものであったかとそこにも我が真心、その凛として律した己が忠義を正すことをやめないということです。

心頭滅却していくということを、常に意識して修養をした一生だったのではないかと毘沙門天の姿から実感しました。大義や龍に恥じないような純粋な魂を磨きつつ、気づきをさらに自問の糧にし子ども達の幸せを祈り、今の日々を精進していきたいと思います。