分かち愛

分かち合うということは素晴らしいことだと思います。

苦しみを分かち合うことができる人がいるから孤独というのはまたそれも自分を磨くチャンスになります。そして歓びを分かち合うことができ人がいるから仲間というものもまた自分を認めるチャンスになります。

人は一人ではないと思う時、そこに仕合せということを感じるように思います。

自然に沿った生き方というものを今年は学び、その中で素直であること、ありのままの太陽や月のようにしていること、そして恩恵を共に分かち合っていることなどを学びました。生きていくということは分かち合うことだということも今ではそれがはっきりと観得るのです。

そして人のご縁というものを考えてみます。

よくよく生というものをふり返ると、この世はこれだけの人達がいる中で同じ苦しみや歓びを持ち合う同士がご縁を得ているように思います。例えば、今までのその人の人生の道に歩む中で何らかの出来事から深く悩み傷つき無理をして正直でいられずに我慢をしたままでいたことが苦しみの原因になりそれがいつまでも取り除かれないままになっているとします。

それが一人で前に進もうとすればするほどに苦しみに苛まれ歩みを止めてしまってさらに苦しみが大きくなっていきます。それをご縁を辿り結ぶことで、自分の自然の姿に近づこうとし、それを共に分かち合うためのパートナーというものが顕われるようににも思うのです。

そうしてそのパートナーと共にあることで、様々なものを分かち合い、認め合い、助け合い、許し合い、救い合い、笑い合い、信じ合い、、、これらの合いを分つことで素直な自分、肩の力が抜けた自然体の自分に戻っていくようにも思うのです。それだけ人が一人では生きられないというのは、苦しみも歓びも人と人との間で共有することで生きているからのように思うのです。

私の大好きな言葉にドイツの詩人ティートゲの言葉があります。

「二人なら苦しみは半分、喜びは倍に」

喜びを人に分かつと、喜びは二倍になり、苦しみを人に 分かつと、苦しみは半分になるということですが、これはご縁そのものの意味を詠んでいると思うからです。

人は誰でも何かに苦しみ悩んだからこそ同じような体験をしている誰かの御役に立てるように思います。自分が乗り越えたことや、自分が体験したことが必ず誰かのためになっていくのです。だからこそ、体験を意味づけしていくことは重要でそれを積み重ねていくことが人生を善転していくことであろうとも思います。

こうやって人は自分のいのちが何かの役に立つということに幸せを感じます。
そしてそれは共生して、その中にある貢献によって得られるように思います。

必ずその苦しみを乗り越えられるパートナーというのは顕われ、必ず道に同行してくれるものです。だからこそ、人生には無駄がないのであり全てが学びであると言い切れるようにも思います。

自分の体験が誰かの御役に立つと思うだけで、幸せな気持ちになりますからご縁があることの素晴らしさを実感します。もっとお役に立ちたいと思えば思うほどに自然に近づいていく必要を感じています。

私は今日この記念する日に、分かち合いは、「分かち愛」なのだと意味づけました。

これからも自然や子ども達から見習い、いつも広い明るいニコニコ笑顔で自分らしい花を周囲と分かち愛ながら純粋無垢な大輪を咲かせていきたいと思います。