子どもの頃のことを思いだすのに太陽や月のことがある。
あの頃は、昼や夜に自分が歩くと一緒についてくる太陽や月を不思議に思ったものです。
何度も走り込んで遠くにいっても、空を見上げればどこまでも自分に着いてくる太陽や月。
こちらが角度を変えてみても隠れてじっと待ってみても見上げたらやっぱりそこに居るのです。車に乗っても自転車に乗っても空を見上げてはあれはなんで着いてくるのだろうねといつも誰かに聴いていました。
気がついた頃にはもう考えるのを諦めてしまい、なぜだろうとしつつもきっとこれはいつも居るものなんだという当たり前の存在への安心感を全身全霊に刻み憶えたものです。
同じように夜になれば今度は無数の星たちが出てきました。
一番星にはじまり夜を迎え、深夜の満点の星空、黎明の時間の紫色の空の点々とした光。
そして月が薄くなり、山の向こうからまた必ず顕われる橙色の明かりといつもの太陽。
風に雲に霧に木々の音、鳥の声、緩んでいく空気、そして人々の生活の気配。
こういった毎日がなぜこういった毎日なのだろうと子ども心にいつも不思議を憶えていました。
ゆっくり過ごすということは本当は何か。
自然と共にあるということはどういうことなのか。
そういったことを子どもの頃はいつも覚えていた気がします。
今の時代は、ゆっくりというのはスピードだけでしか語られることはありません。しかし子ども達の心には、本来のゆっくりが備わっていて無限の時間を有するように思います。そういったことを思い出すことが本来の自分を取り戻していくことのように思います。
ふり返りをしていたら、なぜか不思議な懐かしさまで思い出してしまいました。
いのちはゆっくり生きるといい。
それは太陽と月と地球と自然とともに歩む大切な日常との美しい邂逅かもしれません。
鞍馬での朝にふと、心の故郷を思い出しています。