尽くすと待つ

人事を尽くして天命を待つという言葉があります。

これは人事と天命という言葉が強いように感じますが、本質は何を尽くして何を待つのかということではないかと思うのです。

尽くすというのは、自分のすべきことを行うという意味で使われるように思います。
そして待つというのは、全てを丸ごと信じるという意味で使われるように思います。

元々、尽くせないときというのは自分のすべきことではない余計なことばかりに手をだし本来の自分の役割を果たそうとしないときにそうなるものです。そして待てないというのは、周囲を信じる事が出来ず自分の思い込みに囚われるから待つよりも思い通りに動かそうとして焦るときにそうなるものです。

そして人事というものは、簡単に言えば皆の御役に立つように自分を遣い切るという言い方ができます。人の世界は、共生と貢献で成りなっているのだから自分が何のお役に立てるかを真摯に求め一生懸命に自ら尽くし、自他を喜ばせることが人事そのものになるのです。

また天命の場合は、簡単に言えば自分は全体の一部として循環の中にいて生死を分ちあっているともいえます。そういう自然そのものの姿丸ごと全体のことを心で感じて信じきるとき、きっとこれでいいのだろうと天に任せ天に委ねるいのちがあることを知り天命となるのです。

この両方は、自然界にいる野生の生きものたちは当たり前に行っているものですが私たちのような自然から少し離れているものが本来の在り方や姿を忘れないためにいつもバランスを取るためにこの尽くすと待つを常に確認する必要があるように思うのです。

大極的に観れば、太陽系の星々と共に地球号に乗り込み大宇宙と旅をするなかで、私たちはその必然の中で生きる死ぬの往生を知る者たちで構成されているのです。

自分が何をすべきか、自分にしかできないことは何か、そしてこれでいいのだと信じることが子どもの前で全身全霊で歩んだ道のモデルとしての自覚になるように思います。

この曲がりくねった道が、自分の道だと歩みを振り返って来年の準備に代えたいと思います。