謳歌

自分の決めたことを信じぬこうと取り組んでいけば、楽しく幸せなことだけではなく、悲しいことも苦しいこともあり、時として愚痴をこぼすようなこともあるのがそのものの人生だと思います。

そういう時は、歌を詠ったり、自然を愛でたり、子どもに癒されたりしながらも人はその時々に大切なものに気づき、大事なことを思い出しまた勇気と元気を取り戻していくように思います。

それら一つ一つのことを消化吸収し、身体を通して世の中で生きていくのが自分というものです。そうして不思議と毎回感じる事ですが、通過するときはいつもそのものを丸ごとを認めているときにできるように思います。そしてそれが信じるということではないかと、いつも大事なときにこそ心が気づくのです。

つまり大きな出来事というものが信じる気持ちを思い出させ、それを丸ごと受け容れるときに信じる気持ちはしなやかで嫋やかになっていくのです。

頭でいくら分かっていたとしても、気づいてみると日々の中で色々なことをつい一人で全部背負っていくものです。そうして一人で背負っていく中で繫がりが薄れ、絆が弱くなっていく中で信を忘れないようにとその人の周りに出来事が起きてくるように思うのです。そしてそれが道理であることを証明しているのです。

この信じるということは、全てを丸ごと受け容れることからはじまるように思います。

人生は一つの叙事詩であるという意味を実感します。

素で受け容れるには、私の体験では歌を詠うときにはじめてできるようにも思います。詩のように矛盾の中にある全ての今を心で詠んで、その道草を楽しみながら自らの人生を謳歌していくのをじっくりと味わいたいと思います。

真っ新~真価~

人は自分の領域を超えて何かが起きる時、発想の転換が必要になります。

発想の転換というのは、今までのやり方を見直し、真っ新の状態から立て直すことに似ています。この方向では難しかったらまったく別の方法を考えるというようなものです。

例えば、重たい石があってそれをどうしても持ち上げられないと思ったら他の方法で持ち上げるしかありません。中途半端に重たくて持ち上げられても、それをいくつもとなったら疲れてしまいます。

そういう時は、何かの道具を使うか、そもそも重たい石はそのままにして自分が移動するか、もしくは何かそれを工夫して転がすことで持たないかなどを智慧を働かせるのです。

今までの方法が合わないと思った時の開き直りは、様々な状況を受け容れるのに似ているように思います。自分の思い通りにいかせようとすることから、人はこだわり意固地になっていくものです。

そういうものを一度手放して考えることを、真っ新にしてというのではないかと思います。

ある程度、様々な自分の都合を引きずっているとそれに固執したいとするばかりに周りにも自分も頑固になっていき無理ばかりを通そうとして軋轢をつくってしまうものです。そういう時は、逆転の発想ではないですが開き直って立て直すことがいいように思います。

手放すというのは、自分が固執して離したくないと思っているものを一度手放して考えてみるということだろうと思います。そしてそれができるのが本当のスペシャリストでありプロフェッショナルではないかと私は思います。

素人やアマチュアでは、ダメなことばかりを考えてできない理由ばかりを専門的に並べたてていくことで本来のスペシャリストやプロフェッショナルのように振る舞おうとします。しかし、世の中でできないと思えるようなことを発想の転換で実現していくのが本当の実力者であろうと思うのです。

できない理由を並べ立てるのは、誰でもできることです。

そうではなく、どうやったらできるのか、だったらこうしてみようと転じる工夫とそれを実行する行動力があってこそその道を究めた人たちであろうと思います。何か行き詰るときこそ、日々の真価が試されるように思います。

真っ新を楽しんでいきたいと思います。

被災地と震源地~心がけの妙~

先日、問題の本質を見極めるのに身体で考えてみるという機会があった。

自分が凝り固まっているというのは、どこかに自分でも気づかないような不自然になっていること、つまり偏って力んでいることをいうのは先日のブログで書いた通りです。

この力むというのは、自分の我が強くでてしまい保身やメンツ、その他の不安からどこかに力が入り過ぎているからバランスが取れずそこの筋肉が収縮しそれが凝りになっていくのです。そしてその凝りだけをいくらほぐしてもまたそれがまたいつも通りに凝りはじめるのは、水たまりだけの水をいくらほぐしてもそのうちに元の水たまりにまた水がたまってしまうかのように部分最適ばかりやってもいつまでも解消されることができません。

身体で言えば、全体最適というように凝ったところだけではなくその震源地がどこであるかというのを見出していくために身体全体を調べていく必要があるからです。震源地と被災地の違いではないですが、どうしても余裕がなくなると被災地ばかりに目がいきますが本来の震源地はどこにあるのかを正しく見出していくことが対処療法ではなく根源治癒になっていくように思います。

身体でいっても、肩こりの問題が足元にあったり、頭痛の問題が内臓であったり、実際は全体をよく観てみないと分からないからです。自分の中で治ったといくらいっても、震源地が其処に在る以上、また時間が経てば同じところが出てくるのが世の常だからです。

先人たちの地震の対策に色々と思うことがあります。

どこまで津波が来るのか、過去の人達がどこまで体験したのかそれを神社を設置し語り継ぐことで子々孫々へ同じことが起きた時の対応を示しているのです。決して津波が来るからと下流に住まないというわけではなく、そういうことが必ずあるから日頃から怠らないようにと伝承していくのです。

これは長く深いところで出来事を洞察しているからこその根源治癒法の一つであろうとも思います。西洋的な対処療法もいいですが、何が根源治癒なのか、考えてみる必要を感じます。

そう感じても、やはり機会をどのように活かすか、その活かし方にその人の心がけがでてくるように思います。自分の状態を正しく知るには、まず自分から肩の力を抜いてリラックスして心を開いて委ねるというような良心が出ている状態をつくるのが先決です。

最後に、ちょうど安岡正篤氏(東洋人物学・致知出版社)の言葉に学びとりたいと思います。

「日本では、観音信仰に次いで地蔵菩薩の功徳がいろいろ説かれておるが、「多逢(たほう)勝因」は心掛け次第で可能である。自分一人ではなかなか結ぶことが出来ないけれども、逢うことはできる。いや、自分を取り戻すためには、逢う必要がある。つまり、人間は出来るだけいい機会、いい場所、いい人、いい書物、そういうものにバッタリ出くわすことを考えなければならない。これを「多逢勝因」という。」

人は心がけを重んじていけば、様々な機会に回り逢いその機会を活かすことでより深く学んでいけるように思います。路を歩む中で、同志に出会い、師に出会い、友に恵まれることこそ人生の幸せや福を味わっていく機会の兆しのように思います。

日々の心がけ次第では、多くの人達の思いやりの中で安心して暮らしていけるように思います。足ることを知るのも、感謝をすることも、それが活かそうという心がけから来ているからです。力むときはどこか不自然であるとき、そういう時は心がけから立て直し出会いを重ねて歩んでいくことが処世かもしれません。

智慧は、心がけからはじまり心がけに終わるように思います。

日々修練できる場があることに感謝いたします。

 

冬の風景

昨日、福岡の自然農園に足を運び冬の状態を観察してくることができました。

昨年末に植えた芋の種も、土中で新芽をじっくりと出しています。

冬というのは、冬眠していると思って何もしていないと思いがちですが生きているものはこの冬の厳しさの中でじっといのちのタイミングを計りいのちの道を歩んでいるように思います。そして同じく夏も、暑さと渇きの大変厳しい中でいのちの道を歩むのです。

自然の中で生きるということは、世の中には厳しいものも苦しいものも、そして楽しいことも幸せなことも沢山あるのだと実感しながらも素直に生きることを学んでいるように思います。

冬は冬で雑草も生えず、霜や雪の中であまり成長していないのではないかと感じますが確かに春を待つ息吹に包まれています。芽がある部分も、これから出てくる部分も、よくよく観察するとあらゆるところに存在しているからです。

冬の時期は、隠忍自重ではないですがじっと耐える時機であるように思います。じっと待つのは、自然の中でいる自分を丸ごと信じることができるからのように思います。丸ごと信じるというのは、待つときにこそ実感できるものかもしれません。

何もしないで待つということは大変難しいことですから、自分のなすべきことをやりながら待つというのがそれぞれの自然の在り方かもしれません。動植物の心は、自分だけではないから自分だけの努力で何とかしようとは思わない遊びがあるということでしょう。

人生を豊かに生きるためにも、厳しい中にあっても遊び心を大切に豊かに歩んでみたいと思います。

呼び覚ます

生活をしていく中で、観直してみると元々持っていたものが色々と消失していることが分かります。

例えば、暖房器具などもそうですが日頃から自分の身体で温めるよりも外側の便利な道具を用いていつも身体を温めていたら元々持っていた体温調節の機能が次第に衰えてきて周りのものに依存するようになってきます。

そういう状態で外に出たら、すぐにしもやけになったり風邪をひいたりしやすくなるから、余計にマスクやホッカイロ、その他の移動手段での工夫などより便利なものを求めて対処していくようになるのです。

これも一つの元々持っていたものが消失していく事例です。
もう一つ例えると、カタチだけではなく人々の絆なども同じです。

日頃から契約とか立場とか、お金とか法律だとかの外側の便利な枠組みの中で人との関係を築いていたら元々もっていた信頼のきずなという機能も次第に衰えてきて表面上のつながりに依存していくようになっていきます。

本来、元々は人は絆を大切にしていくことで助け合い長くお互いを生き残らせる智慧があったのです。それをお金などを中心に便利なものを活用して自分だけ生き延びようなどと思うことからもともとあった絆の力が消失していっていると思うのです。

文明というものは、生きていくために工夫しては生きやすくしていくためには欠かせません。しかしそのことで、今まで大切に守ってきた元々持っていたものを消失していくことで生き難くなっているとも言えるように思います。

やはりどちらかに偏ってしまうと、長く中庸や中道に止まっていることはできないようです。

温故知新ではないですが、こういう時代だからこそ敢えて温故が何かを大切にし、そして敢えて知新していくという勇気が必要ではないかと実践の重要さを改めて実感します。

時代は日々に変化していきます。

自分の中で消失していると感じている元々持っている力に声掛けをして呼び覚ましつつ、変化の象徴でもある子どもたちからその力を学んで実践していきたいと思います。

ゼロベース

刷り込みの中の一つに、無理をするというものがあります。この無理というものを深めてみると、いつもではなくどこかが無理に力んでいるともいうように思います。

先日、整体を学んでいる方とのご縁があり体のことについて教えていただきました。

本来、穏やかで静かな時は体に力んでいくことは少ないように思います。それがどこか感情の波に揺られていたり不安で落ち着かないと体に無駄に力を入れているのです。こういう状態を無理というように思います。

リラックスしているということは、無駄な力が抜けている状態であるということ。無理をしていないということになるのです。

そもそもこの無理というのは、全て感情が根底にあり自我に囚われていることに起因するように思います。そして知らないうちに無理をしたというのがあるのも、それは知らないうちに感情に呑まれたともいうように思うのです。

人は感情と理性ではないですが、自律神経が安定していると日常は安心してバランスよく平静に過ごしていくことができるように思います。だからこそ、偏ったなと思ったときは一度リセットしゼロベースから作り直すというように自分を整えていくのだとも思います。日々の日課を持つのも、自分が同じところに回帰しているかと立脚するところから見直すのに役立つからです。

バランスを崩しているのにそのまま無理に自然体になれば、他人に対する思いやりや配慮を欠き、真心は通じにくくなるように思います。焦ることや急ぐこと、押し付けや批判などもそういう自分の状態が周りに感化していくように思うからです。

一番人間関係で不幸なことは、ひょっとしたら自分の焦りを人に押し付けているときかもしれません。だからこそ、他人のことを思いやれる優しく強い人になりたいのであろうと思います。

しかしそれでも人は忙しい時や余裕がない時もあるのが普通ですから、そういう時は開き直ってできるところからやっていくのがいいように思います。そういう時こそ周囲が感動してくれたり、深く学んでいたりするからだと教わりました。

自分が無理をしているのは、一度すべてをゼロベースにしてみないと分からないものです。自信とは、そういう白紙のところに止まることができていることをいうのかもしれません。

最後に、四書の大学の三要領一節を省みて終わります。

「大学の道は、明徳を明らかにするに在り。民に親しむに在り。至善に止まるに在り。」

この至善に止まるというのが、本来の自分の居るところ、つまりは自然体ということなのでしょう。日々をチャンスと捉えて、実践から正しく学んでいきたいと思います。

光を観直す

何もしないというのは味わい深いものがあります。

人は焦りから目先の解決ばかりを追い出すと、ものごとが観えなくなっていきます。
目に映るのは、足らないものを探しては頭を廻らせ悩み惑いの中に入りこみます。

そういう時は、都会のネオンの中で星が何処にあるのかまた観えなくなるのです。

自然の中に一人身を置き、暗闇の中にじっと佇むと星々が観えてきます。
また森の中で独り身を置き、静かに澄ませると音が聴こえてきます。

そういう境地に置いて、はじめてものごとは観えてくるように思います。

有事の時は齷齪しないで、凡事にこだわり、当たり前を徹底することが人事を尽くしていることになるように思います。何かの派手な解決策に身を乗り出すのは迷いの中に居る船のようです。

灯りが燦々と光っている中でいることは、確かに一時的には安心するのかもしれません。
しかしその安心は、目に見える安心であって心がついているようでついていないようです。

本来の安心とは、心の安着であり揺るぎない信念であろうと思います。
大事なのは、速やかに原点回帰していくことのように思います。

だからこそここでまた目を閉じ、眼を開く、そして光を観直すことが私の所以です。

志の火に燃料をくべ、自分の使命を確認していこうと思います。

 

愛と義と信と楽と幸

先日、愛着関係について話をする機会がありました。

最近の私はこの愛着というところに使っている愛は、古来から日本に存在している愛ではないのではないかと思っています。今の時代の義も、古来の義ではなく外来の言葉によって意味が変わってしまったのではないかと思うのです。本来の翻訳ミスもあるのかもしれませんが、実際は価値観によって言葉は形成されるのですから間違っていくこともあるように思うのです。

今では愛着とは、親が子どもに対して無条件で可愛がるかのように言われますが本来の愛はとても厳しいものです。今の愛は、親が子どもを甘やかし、子どもも親に甘えるだけの関係の愛着だということになっていることが多いのです。

そういう愛着を持っていたとしても、それでは他人との信を結ぶことができにくいように思います。そのことから、他人に頼るのではなく他人に甘えることで社会に自分を立てることができずに苦しんでいる人が多いように思うのです。

本来は、人間はまずこの世で行うのは、親から愛を学び、そして友から義を学ぶ、そして社会から信を得るというように成長していくのだと思います。

その最初の段階の愛で、何か躓けばそのあとの義が立たず、そして信も歪んでしまうのです。

人は信があるから、人から信頼されるのです。これは自分が根本に何を信じて生きているかを自覚していることであり、それを決めていることをいうのです。

私は会社でも仕事でもよく生き方と働き方の一致という説きますが、これはそもそもこれが分かれているはずがないと思っているからです。そして仕事も生活も重なりあった理念を主軸に、人事を尽くしいつまでも中道を学び続けて自分を生まれ変わらせていくというのを方針に設定しています。

そうすれば必然として、様々なところの問題を相手に内外左右されずに自らで自らの人生の価値を決心していくことを優先していくことができるようになるのではないかと思うのです。そうしていることが、保育を学び、さらにその生き方を通してはじめて子どものお手本ではないかと感じているからです。

この愛というものを学ぶのは、親から厳しい愛を受け取ったものでなければ分かりません。親代わりが必要な時代というのはおかしいと思います。本来は、親が愛を学び、子も愛を学び、そして義を貫くという生き方を実践し、そして信を得て、楽しい幸せな世の中にしていけるのではないかと思います。

見守るを実践していれば、見守り愛のことも学びます。
自立は、厳しさと慈しみの中で育まれるということは普遍の真理のように思います。

人生の中で人は人になるために道を通して互いに学びあい、見守りあい、人はそこから成長し、より魂の望むままに自分らしさに出会っていけるように思います。だからこそ日々を流されるのではなく、常に納得のいくように心研ぎ澄まして様々な出会いからキャッチしていきたいと思います。

心の絆を結ぶ~自分へのサイン~

人は信頼関係をどう築き上げ、自分のコミュニティを形成していくかというのは生きていく上で何よりも大切なことであろうと思います。

今の社会では、個人主義が横行し、自分が自分がとやっているうちに自分のことしか考えられず、他人のことにあまり関心を持たないような人たちも増えて孤立化してきています。昔は、家という考え方があり一家、つまりはファミリーだとしてその顕現したカタチとしての「御家」をみんなで一丸となって盛り上げていこうと一心協力して取り組むことができていたといいます。

それが今では、何でも一人でやれることを尊び、一人でやれたときに褒められるような教育を施され、一人で何でもできる人が能力のある人かのように錯覚してきているように思います。心を開いて自分から裸になりさらけだすことはまるで弱い人がすることであるかのように、美徳が勘違いされてきているのです。今の教育でいう美徳などというものは、単に人を頼らずに一個人で生きていけと言っているかのように伝わっています。

そういうことから大多数の人は心を閉ざしてしまい、相手が自分に手を差し伸べてくれるのをいつまでも待つような人たちが増えてきています。そして社会を彷徨いまるで親代わりになる人を探してはいつも自分を助けてくれる人を求めて、甘えを断ち切ることができないでいます。しかし本来の人生とは自分から進んでどんなことも経験をし、体験をし、全部を一々自分で納得して自分で決めて自分で生きる価値を実感していくものです。

よく日本人は、空気を読むといいながら相手の出方ばかりを様子見して絆を結ぼうとせずに距離を取ろうとばかりを気にします。本来は、絆は本心と本心が重なり合う場所、つまり私の言うタイミング、御互いの腹が決まったときにこそ絆は結べます。それを自分が傷つくことを恐れたり、傷つけてしまうことを恐れたりして相手に合わせようと思うばかりに無理をしてしまうと絆が正しく結べません。当然、自分から先に本心や本音で心を開いていくことは心も丸裸ですから多少の傷つくこともあるかもしれません。しかしそれでも自分から絆を結ぼうと近づいていくから相手も近づき、相手の出方を待っているから相手が遠ざかってみえて離れていくように感じて孤立してしまうのです。

自分が気にもしていない分かってもいない場所の根底に甘えが棲みつけば、無意識にいつも助けてもらおうとか、誰かに気にしてもらおうとか、皆に手を差し伸べてもらおうとかの内面が、周りににじみ出てしまい、周りも絆を結びにくくなってしまうものです。自分の中に甘えが存在しているから人は信頼関係が正しく結べないのです。自分がやることになっていないというのも、実際はその言葉以前にまず心の中に巣食う甘えが断ちきれていないということに気づくべきなのです。

甘えていてあてにすることは、決して人を頼ることを学んでいるのではないのです。社会の中での自立というのは人を頼ることができてはじめて成るのだと私の師も語ります。これはまず自分から相手に心を開き、どんなに傷ついたとしてのその人と絆を結んでその繫がりをまずしっかりと持ち自他を役に立たせていこうとするとき全体の中に必要な自分に自信を持てるようになるのです。

仲間との絆、社会との絆、友との絆、同志との絆、そういう絆に共感することができれば決して人は孤独にも孤立にもなりません。心の絆を結ぶというのは、いつも絆を通して相手の心に共感していることを言い、決して絆を避けて自分のことだけの心に閉じこもらないことを言うのです。

随分と長くなりましたが、自分から心を開くというのはもっと周りの人達と自ら心の絆を結ぼうとしていけば次第に思いやりを持てコミュニティに入って同化していけるはずです。もしも今自分が孤立や孤独を感じてしまうのは、「自分のことばかりを考えてしまっている自分への自分の心からのサイン」であろうと思います。

まずは相手との絆を結ぶのが先、そのあとに相手を思いやればきっと人の気持ちに共感できる人になるだろうと思います。

結局はこの甘えの問題も、心を閉ざす問題も、過去から今への社会問題が、その人に降りかかってきているかもしれません。だからといってそれに流され幸せを諦めないで何でも自分で考え抜いてその生き方を決め、それまでの自分に打ち克つ勇気を出して天から与えられたたった一つの自分の人生の幸せを心の絆の中で結んでほしいとも願います。

そしてその幸せの変化を多くの人達へ伝道してさらにその輪を大きくしてほしいと思います。この世の刷り込みもまた、自分を成長させ学ぶために存在するものです。どんなこともから貪欲に学び、機会を子どもたちへ活かしていきたいと思います。

人生を育てる

先日、あるコンサルティングを行っている園で研修を行いました。

そこはもう6年以上前から一緒に理念を策定し取り組み、実践を共にしているのですが一心協力して日々の保育に精進しています。いつもお会いしていくたびに皆さんが思想的にも技術的にも、また人間的にも全てにおいて大成していきていることに気づけます。

それもそこの皆さんが素直に学び続ける姿勢をいつまでも維持しているからです。先日も変化も学びも自分からするものであることをよく理解してくださっていました。子どもを見守るとは一体何なのかを、皆さんがよく日頃から保育で実践なさっている姿に改めて感心いたしました。

人はまず、反省をよくできる人が伸びる人のように思います。

自分が理に反することから様々な事件が起きて自分にとって難儀なことが発生してもそこから学ぶ人と学ばない人がいるのは事実です。学ばない人は、繰り返し似たようなことがいつまでも発生してはそこから後悔はしても正しく反省ができないのです。

それとは別に、毎回、正しく反省できる人は、自分が何が道理に反したのか、何が筋道に逆らったのかを深く掘り下げ自己観照ができ、そこからはじめて自分の生き方を変えることができるようになるのです。

人は成長していく方を選ぶという言葉を聞いたことがあります。

それは学び直せる方を選択していくと言い直してもいいように思います。この「直」という字は、毎回、自分が正しい方へと転じていく、本質や道理に照らして自分の方を変えていくということがいつもできるという意味であろうと思います。

それをいつもの日常の中で行うことができて「素」、素養の素が入ることで素直とも言うのでしょう。日々は変化するかしないかの連続であろうと思います。しかし、有難いのは必ず変化というのは起こりますし変化はこの世の常であり、これこそが私たちを学ばせて成長させていくのです。

人は結果を選ばず、生き方や学びを選ぶというのは勇気のいる事です。

しかしそれでも遣りたいと思う人だけが、ビジョンを持ち、夢を実現していく充実な生き方を全うしていかれるのでしょう。

常に、「自分は何のために此処にいるのか」「天は何をお望みか」を自問自答し内省し、焦らずじっくりと自ずから己の人生を育てていきたいと思います。