幸せの本質~インドの旅2日目~

今日は、早朝よりインドのデリー市内からアゴラまで車で移動しつつ現地の観光を行いました。町の中で様々に生きる人たちの様子に、それぞれの運命を感じることにもなりました。

人間は生まれた場所や環境がその後の人生に大きく影響を与えます。もしも自分がここで生まれていたらと思いを巡らせれば、今与えられている環境が感謝できるものです。そしてそれは見聞を深めるということでできるのです。

例えば、寒い気候や厳しい環境の中で成育したものと、温暖で湿潤の穏やかな中で成育したものとでは明らかにその今の自分の姿が異なるはずです。つまりはこのように見聞を広めていくことで本来の自分の今を正しく理解に努めていくことができるようにも思います。

幸せの本質について昨日から考えはじめて今も思いを巡らすとそこには穏やかで安らかといった心の持続ということを思い当たります。インドではこれをニルヴァーナとも言うそうですが、その境地を維持していくことができる心境ということです。

これは私には「真摯に実践を続けて悟ることのない状態の維持」というように感じます。つまりは、悟るというのは、悟るか悟らないかではなく悟ろうと学び実践を続けていることこそが心の平安を持続することのように思うからです。何でもそうですが、分かった気にならないというのは分からないままに実践して腹落ちするまで頭で分かろうとはしないということが現実と理想の中間を得ていると思うからです。

釈迦にこのような説法があるのを発見しました。

「欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世でこの執著をのり超える。人が、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親族、その他いろいろの欲望を貪り求めると、無力のように見えるものがかれにうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊れた舟に水が浸入するように。それ故に、人はよく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。」
意訳すると、欲というものがあるから色々な苦が付き纏う。だからこそそれに気をつけながら歩みなさいということですが私は欲が善いとか悪いとかではなく、ここでは気をつけなさいということが実践そのものであろうとも思うのです。自分という舟を川に浮かべて進んでいけば、波風や様々な試練から転覆しそうに揺ら揺らしていくものです。
最終的には大海原へと向かうのでしょうが、そこまでの旅路に安らかに流れ流され達していくことが幸せのように思えるのです。そしてそれは例えば菩薩行の実践をすることにより、その様々な欲と上手に付き合いつつ、自然循環の一部と一体になった境地にはじめて入っていけるようにも思うのです。
自利と利他がありますが、やはり人は自分のことよりも誰かの御役に立てることを優先しているときの方が欲も回避して自分らしい正しい行いができるように思います。これも実践というもので、それを行ってはじめて心静かな気持ちで義を優先していくことができるように思うのです。
そう考えれば、自分号という舟との正対の実践こそが幸せの本質かもしれません。
明日からは子ども達の施設の視察ですが、さらにインスピレーションを高めていきたいと思います。

幸せの本質~インドの旅1日目~

人生ではじめてのインドへの訪問ですが、何か懐かしいものを感じています。

今は、まだインド行きの航空機内でこのブログを書いているのですが周りはインドの人達ばかりです。長い歴史を持ち、数々の文明を築きまた滅び、今に生きているインドの文化というものを感じることができるでしょうか。

私はインドといえば、仏陀や達磨大師のことなどが思い当たります。もっとも大好きなのは、観音菩薩ですが数々の慈愛と解脱に生きた方々の詠んだ物語や、その数々の言葉ばかりが頭を過っています。今までは本でしか感じれなかったものを、より現実の場所に訪問することで今まで以上に感覚で理解できるものもあるように思います。

仏陀にこうあります。

「愚かなる者に、親しみ近づかぬがよい、賢き人に近づき 親しむがよい、また使うるに値するものに、使うるがよい、これが人間最上の幸せである。

よき環境に住まうがよい、常に功徳を積まんことを思うがよい、また自ら正しき誓いをたつるがよい、これが人間最上の幸せである。

広く学び、技術か芸術を身に付けるはよく、規律ある生活を習うはよく、よき言葉になじむはよい、これが人間最上の幸せである。

よく父と母とに使うるはよく、妻や子をいつくしみ養うはよく、正しき生業にはげむがよい、これが人間最上の幸せである。

布施をなし戒律を保ち、血縁の人々を恵み助け、恥ずべき事を行わざるはよい、これが人間最上の幸福である。

悪しき行いを楽しみとしてはならぬ、酒を飲まば程を過ごしてはならぬ、また、もろもろの事において節制せねばならぬ、これが人間最上の幸せである。

人を敬い、自からへりくだるはよく、足るを知って恩を思うはよく、時ありて教えを聞くはよい、これが人間最上の幸せである。

こと忍び、穏やかなるはよく、しばしば、悟りし人と交流し、時ありて、真の道をかたり、談ずるはよい、これが人間最上の幸せである。」

これらの道徳的な生き方を列挙したあと、こう最後に続きます。

「よく己を制し清浄なる行いを修め、真の道を悟りてついに、不動の心を得なば人間の幸福はこれに勝るものはない、そのとき人は、誉められても、貶されても心を、乱されることもなく得ると得ざるとによりて心を、動かされることもなく、憂いもなく、怒りもなく ただこの上もなき安らぎの中にある、人間の幸わせはこれに勝るものはない、人よくかくの如きを行いおわば何処にあるも打ちかたるることなく、何処に行くも幸い豊かならん、かかる人々にこそ、最上の幸せはあるであろう」

まるで何ものにも囚われず心静かに穏やかに生きるというのが人間の幸せであるということを繰り返し言っているかのようです。

一体、この人間の幸せというものの本質とは何なのか。

それをもう一度、はじめから考え直して定義してみたいというインスピレーションが来ました。
もうすぐインドの上空を通過します。

 

物来順応~変化自在~

昨日は新年の祈祷と会議が行われました。
心新たに書初めをし、昨年のふり返りをして今年の方針を確認するのは大切な機会です。

私たちは根本が変わることがないので昨年に引き続き「リカンパニー」ですが、その他の課題は常に変化し改善していく必要があるので節目節目に確認することを大切にしています。 不易と流行ではないですが、何を変えずに何を変えるのかはそれは変化というものを正しく受け止めているからできることであろうと思います。

変化し続ける日々というのは、何をやめて何をはじめるかということの繰り返しです。
何度も何度も今までの習慣を新しいものへ変化させていくようなものです。

慣れてくるとマンネリ化してそのうちに本質が見失われてきたりするものです。
だからこそ客観的に間違いに気づけばそれを変えるという連続が今の自分を醸成します。

今までは要らなかったものでも、それがもう一度必要となったりもし、またはいくら苦手だと避けていてもそれは必ず通らないといけない道であったりもするのです。

自分の都合の良い道ばかりではなく、時には荊の道もあれば歩けないようなでこぼこの道もあるのです。それをちゃんと自分にばかり合わせずにもっと踏み込んでその道を楽しんでいこうと取り組む先にこそ変化の兆しを得るように思います。舗装された道路ばかりしかない今の時代にそんなところばかり歩いていても次第に面白くなくなっていくのかもしれません。

気づいたらその次には改善するくらいで居る方が考えすぎなくて心地好いのかもしれません。目標や計画、効果検証も期限を切るというものも、実際は道を楽しくするためにこそ用意するものかもしれません。

昨日は、その他に久しぶりに佐藤一斎の「言志四緑」からの文章に出会いました。

それは「物来順応」という言葉です。

これは剣の極意、武士道の在り方を示したものでこうあります。

「剣術や槍術の試合には、臆病な心を持った者は敗れ、勇気を頼む者も敗れる。勇気や臆病という考えを一つの静の中に融合し、勝敗を一つの動の中で忘れ去り、これを動かすのには自然のままに動き、わだかまりなく実に広く万事万物にかたよることなく公平な公明正大であることである。これを静にするには、あたかも地の寂然不動なるが如くであり、物来たればこれに応じて対処する。このような者は必ず勝利を得る。心を修養する学問もこれにほかならない。」

これは私の意識する「先待ち」という思想にも共通し、どのような事件があっても動じずに穏やかに処していこうとする錬磨修身の私の目指す生き方とも同じです。その境地へはまだまだ道は遠いですが、遠いということはそれだけ有難いことではないかとも思える日々です。

今日からはそれをいつも体現してくださる師と同行しインドに行きます。
どんな出来事が待っているのか、もう今この瞬間から旅のシンクロニシティに出会っています。

自分と我

日々に生活していく中で、自分というものと我というものがあるように思います。

どこまでが自分で、どこまでが我なのか、この境界線はとても曖昧のように思います。なのでそれを割り切るということは難しいように思います。自分の中で我に囚われているときは、周りのことも観えず自分のことも観えず、その我を通そうとばかりに躍起になっていくものです。

しかし自分を持つことができている人は、我に流されずに自分というものを優先してより周囲に役立て自分を活かすことができるようにも思います。

自分を持つことができるというのは、何のために自分があるのかその使命や信念に沿って取り組んでいく中で醸成されていくように思います。そして我は、やはりどれだけ省いていくかということのように思うのです。

我が出てくるのは、自信のなさや焦りといった欲望から生み出されていくように思います。それに人間関係でもそうですが、無意識のレベルで常に自他よりも我欲を守ろうとして常に自分を押しのけて出てきてはそのまままに我を通そうとしたりするもののように思います。

この我を抜けて自分というものと平常から対話していくことが、本質そのものでいることのようにも思います。そしてそれは大元にある理念と具体的な実践を通じで行っていく中ではじめて本来の自分を優先することを維持していくことができるようにも思うのです。

パターンとしてはそれを左右している自分と我を修めている感情を観れば一目瞭然のように思います。感情には表面の波立っているものと深層の静かなものがありますが常に全体を俯瞰して調和し直観的にいるときは安心しているものです。それがひとたび我が次第に全面を支配し侵食して何かしらの不安というものが発生することからどうしても感情が波立っていき我の雲や霧によって視界を覆いつくして自分が隠れてしまいおかしなことになっていくようにも思います。

自分と正対していくというのは、自分を持つということで我をなくすということだろうと思います。

なかなか実践は難しく日々は葛藤の連続ですが、大切なのは内省であろうと思います。日々に内省することで何が我であったのか、何が自分であったのかを確認していくことができるからです。

こうやって日々に、そして週に、そして月に、そして年にと、心正しく内省を繰り返していけば、そのうち自分というものを正しく持つことができるように思います。ここで内なるものから省いていくものは、それは我そのものであろうと思うからです。

そうして我が省かれて自分が顕われれば、自分を知り自分を学び自分を楽しむことができるように思います。自分との付き合いもまた変わっていき、融通無碍な自由な自分と邂逅する日々を味わえるのです。こうやって自分との旅を今に味わえることはとても上質で楽しく豊かな一期一会でもあります。気づいて変わっていくということは、こういう自分と我の最中で味わっていくものかもしれません。

道筋は長くても焦らずに穏やかに内省をしながら丹誠籠めて歩んでいきたいと思います。

執念

新しいことに挑戦するときや、様々なことを清算し前進するとき大切なのは最期の瞬間までのやる気の維持であるように思います。

どうしても行動よりも妄想が増えてしまえば、やる気というものは減退してきます。そもそもやる気というのは動いているときは下がらず、動かずに考えるだけという妄想を続けているから次第にそれが不安や恐怖を呼び込みやる気が減退していくのです。

そして一番減退する時期というのは、あと少しで達成するという所であろうと思います。

人が成功体験と失敗体験を感じる境目はここで、これを乗り越えるかどうかによるのです。

論語に、こうあります。

「たとえば山を為(つく)るが如し、未だ成らざること一簣なるも、止むは我止むなり。たとえば地を平らにするが如し、一簣を覆すといえども、進むは吾往くなり。」

意訳ですが、「学問も人生もその全ては山を土で積み重ねていくようなものである。それがならないのは自分が土を盛ることをやめてしまうからである。そして積まれた土をならしていくのも同じである。それを一つ覆せるのは、自分がそれをやったからである。」と。

つまりは、それを最期まで遣り遂げるのも途中で投げ出すのもだれのせいでもなくすべては自分がそうしたからだという戒めでもあろうと思います。自分に矢印を向けてみれば、事が為らないのは全部自分のせいということだろうと思います。

だからこそ最後の瞬間や、後半のあと少しのときこそ今までの数倍のやる気を出して走り抜かなければならないのです。長距離マラソンと一緒で、今まで走ってきたことや今まで取り組んできたことを必ず善いことにするという覚悟、そしてその決心が最後に出てくるからのように思います。

そしてそれが粘りと最期まで諦めない心といった執念、そういうものが「信」を生み出していくように思います。根気強く続けていくというのは、その諦めない心の醸成でもあります。

新商品が間もなく一つの軌道を見せますが、ここが正念場だと思い丁寧に取り組んでいこうと思います。

天才とは何か

昨日、スティーブンホーキングの自伝がテレビで放映していて久しぶりに昔の感覚を思い出しました。

中学生の時に、その著書「ホーキング、宇宙を語る」を読んだ時の衝撃が忘れられません。内容がどうであったかというよりも、その好奇心、その驚きを求めていく姿に自分の中にあった真理への探究の気持ちなどが刺激され感動したからのように思います。

宇宙がどうなっているのか、ブラックホールは何でできたのか、それを様々な客観的事実や例えを交えながら説明していく姿にこの学問の面白さを感じたのです。

もちろん、そのころの自分といえば何もわからずただただ驚いて内容がどうであるよるもすぐにホーキング博士に会いにいきたいと思い、必死で英語の勉強をしたことを憶えています。もともとの動機がホーキング博士に会うことでしたが御蔭で英語の成績がぐんぐん上がるというようなこともありましたから意欲は何がキッカケになるのかわかりません。

そのホーキング博士の生い立ちを映像でみて、娘さんのインタビュー記事をインターネットで拝読すると決してご自分の境遇を憐れまず、星を眺めて自分のやりたいことだけに専念していく姿に、改めて生きるということ、その生き方を学ばせていただきました。

通常なら2年と宣告された余命も、その後40年以上たった今もご健在で、これから宇宙に行くという目標も立てているようで流石は博士だと改めてその好奇心への情熱に感動し、今の自分も新たに触発されました。こうやって人は何をやったかとかではなく、何をやることに信念と情熱を傾けるかということが本来の人生であろうと思います。

一人一人、生まれたらそれぞれにテーマは異なりますが宇宙やはじまりについて人生を懸けて取り組むという姿に天才ということの定義を見出してしまうのは私だけではないでしょう。
天才というものは、その無限に湧き出る自分の好奇心かもしれません。

最後にそのホーキング博士の言葉についてとても好きな言葉を紹介します。

「人生はできることに集中することであり、できないことを悔やむことではない。」
「私が人生で学んだことは、自分がいま持っている力を、ぜんぶ使えということです。」

まさにこれが好奇心の源流である気がします。さらに大切な戒めも続きます。

「今の仕事を好きになれないのでは、違う仕事に就いても好きになれない。今の仕事に一生懸命になれないのでは、違う仕事でも一生懸命になれない。今の仕事を好きになって一生懸命やったとき、次なる道が見えてくるものだ。そもそも天職はなるものじゃない、気がついたらなっているものだ。」

自分の大好きなことを遣り続ける力が、生死を超えたところで存在する宇宙かもしれません。
宇宙はまるで心の世界そのものです、阿吽の呼吸ではないですが自分なりの宇宙を生き方で表現していきたいと思います。

 

 

考えるという実践

行動するというのは考えるということ、考えるためには行動しないとできません。

これは当たり前のことなのですが、頭で考えているようなことが実際の現実や現場で合っているということはほとんどありません。言い換えれば脳が、無理やりに現実をそうであったかのように合わせているともいえるように思います。

そもそも考えるというものは現実は何も変わることはありません。本来の考えるというものは、行い動く際にこれはどういうことだろうと実際の場面場面で智慧を出し、それを工夫していることをいうように思います。

実際は考えても行動しないとかいう言葉がありますが、あれはとても変な言葉で考えることは行動することで行動している最中こそが考えているということになるのです。

ですから考えるだけで実践しなければそれは考えているとも言ってはならず、それは単に妄想していると思うという方が当たっているように思います。妄想は現実を変えませんから、やはり具体的に動くや実践することが先でそのあとにはじめて考えているというものが本来の姿であろうと思います。

机上の学びというものは、そういうもので実際の学問は自分の実体験や現在の体験を深掘りそれを腹落ちしてくなかでこそ得ているように思います。巧遅拙速という言葉がありますが、妄想するよりも行動する、悩み停滞するよりも実践するという方が本来の姿であるという意味で解釈してもいいように思います。

まず考えてからという言葉がありますが、あれは考えてからという意味で妄想するのではなく具体的な計画を立てるという考動をしているから妄想してからという意味ではないのです。とにかく動くやとにかく実践するということは、考えることにおいてはとても大切なことです。

決心したらその次には動いている、覚悟を決めたらその次には実践している。

これではじめてスピードが上がるように思います。

何がスピードアップなのか、しっかりと捉えて新たな挑戦を楽しんでいきたいと思います。

自然のまんまの御漬物

先日、愛媛の松屋旅館にて宿泊し糠床の手入れやお漬物についての講話と実践を学ぶ機会をいただきました。

昨年より、自然から学ぶ中で微生物や菌の世界の素晴らしさをさらに実感し具体的な実践を通して学んでいく中での出会いでもありました。そして漬物を環境を用意して早速挑戦してみたものの手入れの仕方が分からず大変悩んでいましたが今回全てが腑に落ちました。

何でもそうですが実践してみる時に、今までのものがないというのはつらいことです。本来は、昔ながらの伝統が残っていて身近にそれを教えて下さる人たちがいたのでしょうが今では本やインターネットですぐに手に入る情報ばかりのようですがあれは実践している文章ではないものもたくさんあります。

特に売れるためにや宣伝のために書いている文章などというものは、現場で試してもどうしてもそれが腑に落ちず、とても悩むことばかりだからです。今回の糠床でもそうでしたが、本を購入しても調べてもためしてもどうしても分からなかったからこそ行動してみて本当に善かったと思います。

きっと私たちの保育現場であっても同じように情報過多で、真実の情報はとても少なく現場で試しても合わないものばかりで苦しんでいる方々もたくさんいるように思います。そういう方々へも少しでも手が届くようなところに真実の情報を届けていかなければ気持ちを新たにすることもできました。

さて、この松屋旅館の糠床は江戸時代から300年以上生きているもので漬けられているものです。御漬物の予約もして食べてみたのですが、今まで食べたものとは明らかに異なり全身が驚きました。

こんなに美味しい御漬物ならば毎日食べたくなるものだと感心したのですが、そのあとの女将さんのお話も全て目から鱗のことばかりで本当に楽しいお時間を過ごすことができました。

内容については、あまりにも情報の質が高くすべてをご紹介することはできませんが一部を紹介すると

「昔の方の智慧は素晴らしい、昔のやり方でやっていれば間違いはない。」

「子育てと同じで、手をかけてあげることが何よりも大事」

「糠床にも四季がある、そして呼吸する、しっかりと四季を味あわせてあげるといい」

「御漬物は美味しく食べ続けるから腐らない、おいしく漬け続けることが大切」

「御漬物が今どういう状態かというのは離れていてもすぐに分かる」

「糠床と仲良くやっていくといい、楽しみがでてくるようになるといい」

「自然に漬かるのをじっくりと待つ、そして食べる分だけちょっとずつがいい」

他にもたくさんの実践語録をいただき、我が家の御漬物も会社で取り組んでいくものの指針も頂戴することができ、これでまた皆と子どもたちの未来へ譲るものを一つ、キッカケを得ることができました。

最後に、昔の人の智慧については本当に頭が下がる思いがしました。今に残っている自然の智慧は、何千年もかけて私たちの先祖たちが編み出した生き残りのために自然から教えてもらったことを自然に教えてきただけでもあります。

自然から学ぶということは、そういうものを謙虚に素直にどれだけ今の私たちが子々孫々へ正しく実践を通して継承していくかというのが今を生きるものの責任であろうと私は思います。どんなに今の価値観が便利や目新らしい変わったものばかりが注目されようとも、長いスパンで物事を省みれば先人たちの行った偉業が眩いばかりに随所に残っています。

本来の智慧とは何か、今年も自然から学び直して自分を立て直していこうと思います。
今年は温故の価値を再定義する年になりそうです。

則天去私と命従我省

夏目漱石の造語に「則天去私」がある。

大正5年に出た『文章日記』(新潮社)の扉に漱石が「則天去私」と揮毫していてその解説ににはこう書かれているそうです。

「『天に則り私を去る』と訓む.天は自然である,自然に従うて,私,即ち小主観小技巧を去れといふ意で,文章はあくまで自然なれ,天真流露なれ,といふ意である.」

他にも広辞苑では、「夏目漱石の最晩年のことば。小さな私を去って自然にゆだねて生きること。宗教的な悟りを意味すると考えられている。また、創作上、作家の小主観を挟まない無私の芸術を意味したものだとする見方もある。」

ちょうど、松山の道後に立ち寄った際に夏目漱石を調べていたらこういう言葉に出会いました。

今年のテーマに沿って学んでいるとすぐに情報が飛び込んできます。学ぶことの面白さや楽しさというのは、同じようにテーマを掲げた人たちとの学びの邂逅のように思うから不思議です。

自然というものと自分というもの、この両輪をどう理解していくかということは生きていく上で重要だと思うのです。私の解釈では、人生は楽をしようとすると偏り辛く、人生は楽しもうと思うとバランスが取れて幸せであるように思うのが今の私の幸福論です。

どうせ一度しかない人生ならば、苦しい方を選んだとしても楽しい日々を送るということ。

そういう人生の中にこそ、去私の境地があるのではないかと今では思うのです。そして運命というものは、生まれる前から壮大な宇宙の循環の一部として自分のいのちが活かされているのだから委ねて信じるということで則天ではないかと私は思えるのです。私の造語にしてみれば、「命従我省」です。

特に人生を振り返ると、どうにもならないような出来事ばかりがあったように思います。

誰かと比べては幸福論を語る人たちばかりの中で、本来の自分の生き方というものを正しく見つめる機会はどれくらいあったでしょうか。人は、人生の苦難や艱難に於いてはじめて自分を見つめて自分を育てていくように思います。

人生の道は、それぞれで異なるからこそ自分で見出していくことが大切なのかもしれません。

夏目漱石から今年は他にもたくさんの言葉を得てインスピレーションがありました。
早速、さらに深めて実生活の中で生かしていこうと思います。

自分を労わる

人は体調を大きく崩すと、日頃当たり前である健康に気づけるものです。言い換えれば、それだけ日頃当たり前の健康が何よりも有難いことだと感謝に気づくのです。

体の声を聴くには、自分のことを労わることが先のように思います。

自分がまだ動けるからと無理をして、無理を重ねて自分を労わらなければやはりどこかで体の声を聞き洩らしまた崩すという繰り返しになるからです。この無理はどこか他人からの期待に応えようとしたり、自分ができないことを否定して頑なになるところが根本にある気がします。だからこそ日頃から自分というものが周りに合わせようとし過ぎていないか本心に正直に対話して労わることが必要になるのです。

そしてこの時の自分を労わるとは、自分に感謝することであったり、自分を見守ることであったり、自分を大切にすることであったり、自分を思いやることであったりと、どこか周りに合わせる自分を頑なに維持するのではなくもっと自然に穏やかに自分というものであることを認めることが労わる事になっているように思うのです。

他人のためにばかり尽力して心を砕くこともいいのですが、まず一番身近な自分を思いやりそしてその余力で他人のことを思いやることが大切なのかもしれません。自分のことを自分で労わるということは、何よりもそのパートナーでもある自分を信頼するということです。

誰かのためにと蔭陽向なく尽力をし続けて無理をすることで、気が付けば身のまわりにもそのように無理をさせていくことは決して本意ではありませんからこれはすぐに私は直す必要があるように思います。

自然に頼めたり、自然に任せたり、自然に委ねたり、当たり前のことですがこれができるのが自然です。

人の期待に応えようとばかりして無理をすることは、誰かのための自分をやることが自分になってしまいます。本来は、自分は自分なのだから自分のままでいる自分に安心し、自信を持ち信頼できることが信の自立であろうとも思います。

当たり前にあったものがなくなるのは、失ってみてはじめて分かるものです。
そうやって気づいていくことで、人はまた成長していくように思います。

この1年半の間で、日々に教えていただいたことをカタチにしていけるように自分を労わり、そして人を労わることに素直であることを大切にしていきたいと思います。