日々に生活していく中で、自分というものと我というものがあるように思います。
どこまでが自分で、どこまでが我なのか、この境界線はとても曖昧のように思います。なのでそれを割り切るということは難しいように思います。自分の中で我に囚われているときは、周りのことも観えず自分のことも観えず、その我を通そうとばかりに躍起になっていくものです。
しかし自分を持つことができている人は、我に流されずに自分というものを優先してより周囲に役立て自分を活かすことができるようにも思います。
自分を持つことができるというのは、何のために自分があるのかその使命や信念に沿って取り組んでいく中で醸成されていくように思います。そして我は、やはりどれだけ省いていくかということのように思うのです。
我が出てくるのは、自信のなさや焦りといった欲望から生み出されていくように思います。それに人間関係でもそうですが、無意識のレベルで常に自他よりも我欲を守ろうとして常に自分を押しのけて出てきてはそのまままに我を通そうとしたりするもののように思います。
この我を抜けて自分というものと平常から対話していくことが、本質そのものでいることのようにも思います。そしてそれは大元にある理念と具体的な実践を通じで行っていく中ではじめて本来の自分を優先することを維持していくことができるようにも思うのです。
パターンとしてはそれを左右している自分と我を修めている感情を観れば一目瞭然のように思います。感情には表面の波立っているものと深層の静かなものがありますが常に全体を俯瞰して調和し直観的にいるときは安心しているものです。それがひとたび我が次第に全面を支配し侵食して何かしらの不安というものが発生することからどうしても感情が波立っていき我の雲や霧によって視界を覆いつくして自分が隠れてしまいおかしなことになっていくようにも思います。
自分と正対していくというのは、自分を持つということで我をなくすということだろうと思います。
なかなか実践は難しく日々は葛藤の連続ですが、大切なのは内省であろうと思います。日々に内省することで何が我であったのか、何が自分であったのかを確認していくことができるからです。
こうやって日々に、そして週に、そして月に、そして年にと、心正しく内省を繰り返していけば、そのうち自分というものを正しく持つことができるように思います。ここで内なるものから省いていくものは、それは我そのものであろうと思うからです。
そうして我が省かれて自分が顕われれば、自分を知り自分を学び自分を楽しむことができるように思います。自分との付き合いもまた変わっていき、融通無碍な自由な自分と邂逅する日々を味わえるのです。こうやって自分との旅を今に味わえることはとても上質で楽しく豊かな一期一会でもあります。気づいて変わっていくということは、こういう自分と我の最中で味わっていくものかもしれません。
道筋は長くても焦らずに穏やかに内省をしながら丹誠籠めて歩んでいきたいと思います。