昨日は新年の祈祷と会議が行われました。
心新たに書初めをし、昨年のふり返りをして今年の方針を確認するのは大切な機会です。
私たちは根本が変わることがないので昨年に引き続き「リカンパニー」ですが、その他の課題は常に変化し改善していく必要があるので節目節目に確認することを大切にしています。 不易と流行ではないですが、何を変えずに何を変えるのかはそれは変化というものを正しく受け止めているからできることであろうと思います。
変化し続ける日々というのは、何をやめて何をはじめるかということの繰り返しです。
何度も何度も今までの習慣を新しいものへ変化させていくようなものです。
慣れてくるとマンネリ化してそのうちに本質が見失われてきたりするものです。
だからこそ客観的に間違いに気づけばそれを変えるという連続が今の自分を醸成します。
今までは要らなかったものでも、それがもう一度必要となったりもし、またはいくら苦手だと避けていてもそれは必ず通らないといけない道であったりもするのです。
自分の都合の良い道ばかりではなく、時には荊の道もあれば歩けないようなでこぼこの道もあるのです。それをちゃんと自分にばかり合わせずにもっと踏み込んでその道を楽しんでいこうと取り組む先にこそ変化の兆しを得るように思います。舗装された道路ばかりしかない今の時代にそんなところばかり歩いていても次第に面白くなくなっていくのかもしれません。
気づいたらその次には改善するくらいで居る方が考えすぎなくて心地好いのかもしれません。目標や計画、効果検証も期限を切るというものも、実際は道を楽しくするためにこそ用意するものかもしれません。
昨日は、その他に久しぶりに佐藤一斎の「言志四緑」からの文章に出会いました。
それは「物来順応」という言葉です。
これは剣の極意、武士道の在り方を示したものでこうあります。
「剣術や槍術の試合には、臆病な心を持った者は敗れ、勇気を頼む者も敗れる。勇気や臆病という考えを一つの静の中に融合し、勝敗を一つの動の中で忘れ去り、これを動かすのには自然のままに動き、わだかまりなく実に広く万事万物にかたよることなく公平な公明正大であることである。これを静にするには、あたかも地の寂然不動なるが如くであり、物来たればこれに応じて対処する。このような者は必ず勝利を得る。心を修養する学問もこれにほかならない。」
これは私の意識する「先待ち」という思想にも共通し、どのような事件があっても動じずに穏やかに処していこうとする錬磨修身の私の目指す生き方とも同じです。その境地へはまだまだ道は遠いですが、遠いということはそれだけ有難いことではないかとも思える日々です。
今日からはそれをいつも体現してくださる師と同行しインドに行きます。
どんな出来事が待っているのか、もう今この瞬間から旅のシンクロニシティに出会っています。