私たちはもともと海に囲まれた島国の中に住んでいる民族とも言えます。
海に囲まれているからこそ昔から漁業なども盛んでした。
そこに家船という人たちがいて、陸には土地を持たずに船で生活する人たちがいたようです。
家族全員が船上生活をする中で、生き抜くことを学んでいくのです。
船に生活するのだから、日々の点検を怠らずに船が沈没しないように手入れをし規範と実務、実践を大事に子々孫々へと暮らしを継承してきた様々な智慧があったように思います。
何か大きな出来事があれば、一家の一大事として昔は全員一致団結して困難を乗り越えました。私は今年の一年のテーマは「家」なので、家に関することで先日も思い当たることがあり二宮尊徳の「大海の家台船」の一説を社内で話をしましたが忘れてはならぬ私たちの在り方そのもののように思います。
そこにはこうあります。
『尊徳先生はおっしゃった。「家屋の事を、俗に家船(やふね)また家台船(やたいぶね)と言う。面白い俗言である。実際、家を船と心得ればよい。これを船とする時は、主人は船頭である。一家の者は皆乗合いといえよう。世の中は大海である。そうだとすれば、この家船に事があるときや、また世の大海に事があるときも、皆逃れられない事であって、船頭は勿論、この船に乗り合せた者は、一心協力してこの家船を維持すべきである。さてこの家船を維持するのには、かじの取りようと、船に穴があかないようにするという二つが大切である。この二つによく気を付ければ、家船の維持は疑いない。ところが、かじの取りようにも、心を用いず、家船の底に穴があいても塞ごうともしないで、主人は働かないで酒を飲み、妻は遊芸を楽しんで、せがれは碁や将棋にふけって、二男は詩を作り、歌を読んで、安閑と歳月を送って、終に家船を沈没させてしまう。嘆かわしいことではないか。たとえ大穴でなくても、少しでも穴があいたならば、すぐに乗合一同力を尽して、穴をふせぎ、朝夕ともに穴のあかないように、よくよく心を用いるがよい。これがこの乗合いの者の大切な事である。ところが、既に大穴があいてもなお、これをふさごうともしないで、各々自分の心のままに安閑と暮していて、誰かがふさいでくれそうな物だと、待っていてすむであろうか。助け船を頼みにしていてすむであろうか。船中の乗合一同が、身命をもなげうって働かなければならない時ではないか。』
一緒に暮らすというのは、運命共同体という意識のことです。
どんなに自分だけが助かろうと思っても、この大海原の世の中を生きていくには自分の帰属するコミュニティー(信頼できる仲間)を築き上げなければなりません。それができてはじめて自立したと言えるからです。
だからこそ自分の乗る船が沈没しないように、同じ船に乗り込んだ乗組員は命懸けで守り、それぞれが一心協力し続けていなければ自分も周囲も守れないのです。家族を守るというのは、一家の人達が心を合わせるからできるのです。
今の世の中は、何を守ることが自分も仲間も守ることなのかを勘違いしている人も増えています。すぐに信頼することを忘れ、自分だけでなんとかしようとするのもその信頼そのものの本質や意義が孤立する社会の中で欠落してしまっているのです。これも都市生活をし、画一教育の中で育った人たちの現代病ともいえるのではないかと思います。
自分だけが助かろうとするのではなく、如何に運命共同体を築き上げるかということを考えなければならないと思うのです。それが歴史を顧みれば人類生存の叡智そのものであったからです。
仏教のいう所の自利と利他ではないですが、利他を常に優先する人はそういうコミュニティーを自らで形成できます。なぜなら利他というのは、自分を守ってくれている安心感を常に信頼を心の主軸に置いて行動することができているからです。そうやってはじめて生きる力の根源になる仲間と自然に包まれて生きる幸せを味わっていくことができるように思います。
先人たちの絆や信頼を家というカタチにして残したのは生存の智慧そのものです。今に昔の人達の智慧を学びつつ、それを繋ぎ譲れるよう、遠くの灯台を見つめて子どもたちの未来に残る船を建造し前へと進めていきたいと思います。