人は信頼関係をどう築き上げ、自分のコミュニティを形成していくかというのは生きていく上で何よりも大切なことであろうと思います。
今の社会では、個人主義が横行し、自分が自分がとやっているうちに自分のことしか考えられず、他人のことにあまり関心を持たないような人たちも増えて孤立化してきています。昔は、家という考え方があり一家、つまりはファミリーだとしてその顕現したカタチとしての「御家」をみんなで一丸となって盛り上げていこうと一心協力して取り組むことができていたといいます。
それが今では、何でも一人でやれることを尊び、一人でやれたときに褒められるような教育を施され、一人で何でもできる人が能力のある人かのように錯覚してきているように思います。心を開いて自分から裸になりさらけだすことはまるで弱い人がすることであるかのように、美徳が勘違いされてきているのです。今の教育でいう美徳などというものは、単に人を頼らずに一個人で生きていけと言っているかのように伝わっています。
そういうことから大多数の人は心を閉ざしてしまい、相手が自分に手を差し伸べてくれるのをいつまでも待つような人たちが増えてきています。そして社会を彷徨いまるで親代わりになる人を探してはいつも自分を助けてくれる人を求めて、甘えを断ち切ることができないでいます。しかし本来の人生とは自分から進んでどんなことも経験をし、体験をし、全部を一々自分で納得して自分で決めて自分で生きる価値を実感していくものです。
よく日本人は、空気を読むといいながら相手の出方ばかりを様子見して絆を結ぼうとせずに距離を取ろうとばかりを気にします。本来は、絆は本心と本心が重なり合う場所、つまり私の言うタイミング、御互いの腹が決まったときにこそ絆は結べます。それを自分が傷つくことを恐れたり、傷つけてしまうことを恐れたりして相手に合わせようと思うばかりに無理をしてしまうと絆が正しく結べません。当然、自分から先に本心や本音で心を開いていくことは心も丸裸ですから多少の傷つくこともあるかもしれません。しかしそれでも自分から絆を結ぼうと近づいていくから相手も近づき、相手の出方を待っているから相手が遠ざかってみえて離れていくように感じて孤立してしまうのです。
自分が気にもしていない分かってもいない場所の根底に甘えが棲みつけば、無意識にいつも助けてもらおうとか、誰かに気にしてもらおうとか、皆に手を差し伸べてもらおうとかの内面が、周りににじみ出てしまい、周りも絆を結びにくくなってしまうものです。自分の中に甘えが存在しているから人は信頼関係が正しく結べないのです。自分がやることになっていないというのも、実際はその言葉以前にまず心の中に巣食う甘えが断ちきれていないということに気づくべきなのです。
甘えていてあてにすることは、決して人を頼ることを学んでいるのではないのです。社会の中での自立というのは人を頼ることができてはじめて成るのだと私の師も語ります。これはまず自分から相手に心を開き、どんなに傷ついたとしてのその人と絆を結んでその繫がりをまずしっかりと持ち自他を役に立たせていこうとするとき全体の中に必要な自分に自信を持てるようになるのです。
仲間との絆、社会との絆、友との絆、同志との絆、そういう絆に共感することができれば決して人は孤独にも孤立にもなりません。心の絆を結ぶというのは、いつも絆を通して相手の心に共感していることを言い、決して絆を避けて自分のことだけの心に閉じこもらないことを言うのです。
随分と長くなりましたが、自分から心を開くというのはもっと周りの人達と自ら心の絆を結ぼうとしていけば次第に思いやりを持てコミュニティに入って同化していけるはずです。もしも今自分が孤立や孤独を感じてしまうのは、「自分のことばかりを考えてしまっている自分への自分の心からのサイン」であろうと思います。
まずは相手との絆を結ぶのが先、そのあとに相手を思いやればきっと人の気持ちに共感できる人になるだろうと思います。
結局はこの甘えの問題も、心を閉ざす問題も、過去から今への社会問題が、その人に降りかかってきているかもしれません。だからといってそれに流され幸せを諦めないで何でも自分で考え抜いてその生き方を決め、それまでの自分に打ち克つ勇気を出して天から与えられたたった一つの自分の人生の幸せを心の絆の中で結んでほしいとも願います。
そしてその幸せの変化を多くの人達へ伝道してさらにその輪を大きくしてほしいと思います。この世の刷り込みもまた、自分を成長させ学ぶために存在するものです。どんなこともから貪欲に学び、機会を子どもたちへ活かしていきたいと思います。