愛と義と信と楽と幸

先日、愛着関係について話をする機会がありました。

最近の私はこの愛着というところに使っている愛は、古来から日本に存在している愛ではないのではないかと思っています。今の時代の義も、古来の義ではなく外来の言葉によって意味が変わってしまったのではないかと思うのです。本来の翻訳ミスもあるのかもしれませんが、実際は価値観によって言葉は形成されるのですから間違っていくこともあるように思うのです。

今では愛着とは、親が子どもに対して無条件で可愛がるかのように言われますが本来の愛はとても厳しいものです。今の愛は、親が子どもを甘やかし、子どもも親に甘えるだけの関係の愛着だということになっていることが多いのです。

そういう愛着を持っていたとしても、それでは他人との信を結ぶことができにくいように思います。そのことから、他人に頼るのではなく他人に甘えることで社会に自分を立てることができずに苦しんでいる人が多いように思うのです。

本来は、人間はまずこの世で行うのは、親から愛を学び、そして友から義を学ぶ、そして社会から信を得るというように成長していくのだと思います。

その最初の段階の愛で、何か躓けばそのあとの義が立たず、そして信も歪んでしまうのです。

人は信があるから、人から信頼されるのです。これは自分が根本に何を信じて生きているかを自覚していることであり、それを決めていることをいうのです。

私は会社でも仕事でもよく生き方と働き方の一致という説きますが、これはそもそもこれが分かれているはずがないと思っているからです。そして仕事も生活も重なりあった理念を主軸に、人事を尽くしいつまでも中道を学び続けて自分を生まれ変わらせていくというのを方針に設定しています。

そうすれば必然として、様々なところの問題を相手に内外左右されずに自らで自らの人生の価値を決心していくことを優先していくことができるようになるのではないかと思うのです。そうしていることが、保育を学び、さらにその生き方を通してはじめて子どものお手本ではないかと感じているからです。

この愛というものを学ぶのは、親から厳しい愛を受け取ったものでなければ分かりません。親代わりが必要な時代というのはおかしいと思います。本来は、親が愛を学び、子も愛を学び、そして義を貫くという生き方を実践し、そして信を得て、楽しい幸せな世の中にしていけるのではないかと思います。

見守るを実践していれば、見守り愛のことも学びます。
自立は、厳しさと慈しみの中で育まれるということは普遍の真理のように思います。

人生の中で人は人になるために道を通して互いに学びあい、見守りあい、人はそこから成長し、より魂の望むままに自分らしさに出会っていけるように思います。だからこそ日々を流されるのではなく、常に納得のいくように心研ぎ澄まして様々な出会いからキャッチしていきたいと思います。