暗闇と手探り

手探りで歩んでいくというのは面白いものです。

以前、善光寺の戒壇めぐりというのを体験したことがあります。漆黒の暗闇の中を歩いていき、無事に錠に触れて出れば仏様と結縁するという内容です。 本来は大変有難いご戒壇ですからその全容はとても尊いもので書けませんが、今回はその暗闇だけに特化して書いています。

まず突然、真昼の明るさから突然の漆黒の暗闇の中に入れば大変な恐怖が訪れます。一切何も見えないのだから、どれくらい続くのか、迷子になっていないか、怪我をするのではないかなど様々な不安も襲ってくるのです。

そうやって不安で恐いと思っていたら手探りで少しずつ歩んでいこうとしていくものです。壁に手を当てて両手でその先を模索しながらちょっとずつ進んでいくのです。雑念や妄念が湧いてきては、何が不安なのかわからないほどに齷齪してしまいます。

こういうことから不安というものの本質も観えてきます。見えないということ、観えないということ、はっきりしない中でいこうとすると不安はつきものです。しかし同時に、はっきりするものなどないのもまた人生であろうと思います。そう考えて観たら、最初からずっと手探りで歩んでいるとも言えるように思います。

だから人は不安を消し去ろうとはしますが、実際は多少の不安があるからこそ慎重に前に進むことができるようにも思うのです。なので、不安は消すのではなく心配しながら手探りでいくことが善いように思います。そうしていくことが、周りを安心させるようにも思えるからです。

暗闇の一番深い時は、手探りで歩んでいけばそのうち光が差し込んできて道が観えるようにも思います。突然、パッとライトが消えた時は穏やかに目を閉じ、恐れながらも手探りで歩み、多少壁に当たり痛い思いをしたとしてもそこから学び前へ進む。

それも道を往く醍醐味ではないかと思います。

一つ一つの出来事や感情をその都度に深く噛み締め受け容れ味わっていくことで、より一層、道が明瞭になっていくように思います。心身の道草もまた味わっていきたいと思います。

 

当たり前の本質

先日、当たり前のことについて話し合いをすることがありました。

当たり前のことを正しく行うということの大切さについては、どの世界でもどの場所でも必ず言われていることです。この当たり前を行うというのは何か、そしてどのことをいうのかということを考えてみます。

例えば毎朝起きることで考えてみると、誰か何かから起こされて起きる人と、自分から起きて誰かや何かを起こす人があるとします。この場合は、本来の当たり前とは他人からや何かから起こされてから動く人ではなく、自分から起きて何かや他人を動かす人であるということになります。なぜなら自らがあるがままに行うことが当たり前というからです。言い換えれば、いつも誰かや何かから気づかされる人になるのではなく、自分から気づいて何かや誰かを気づかしていく人になるのを当たり前を行うという意味になります。

この他人からというものと、自分からというもの、受動的か主体的かともいいますが実際に考えるとは何かといえば自分から考動して実践し周囲を動かしていくことを当然に積んでいくことができるかという意味でそれが当たり前というように私は定義するのではないかと思うのです。

言われてから考えていては、自分を動かし人を動かす人にはなりません。常に自分から動いていくことで「当たる前」から、つまりは当前に自分を動かしているだけだということだろうと思うのです。

よくやらされている人は、この当然のことをしたということはいいません。本来、自分で気づいて行動に換えていく実地実行を日々に行う人だけが真に響き合いを生み出し、そして自発的に道徳に沿って正しいことを行うから「誰に言われなくても当然のことをしただけです」という言葉が出てくるのです。

この当然のことをしているかどうかは、どれだけ日々の出来事に受け身にならずに自分から積極的に正しいことを積み上げていこうという心構えがあるか否かによります。これらの当然のことをしたことを評価していくことを二宮尊徳は「積小為大」という言い方にし遺しています、そこにはこう書かれます。

「大事をなそうと思うなら、小事を怠るな。小事が積もって大となるのだ。大事を望んで小事を怠り、できそうにない難しいことを望んで、やればできるやさしいことをおろそかにするから、結局大事をしとげることができないのだ。」

当たり前のことをまずは正しく理解したら、それを如何に自発的主体的に考動にしていくかが積小為大の実践の第一歩になると思います。何を当然の行いとするか、人任せにするのではなく人生も運命も常に自分から切り開きそれを周囲へ及ぼしていこうと思います。

責任感

責任感というものを考えてみます。

責任とは、本人の責任感のことで自分がやりたいことをやると決めたかどうかということです。責任感を持つことができれば、常に心配は付き纏いますがそこから人は責任に相応しい実力を得ていくように思います。

ドラッガーの著書「仕事の哲学」にはこうあります。

「成功の鍵は責任である。自らに責任をもたせることである。あらゆることがそこから始まる。大事なものは、地位ではなく責任である。責任ある存在になるということは、真剣に仕事に取り組むということであり、仕事にふさわしく成長する必要を認識するということである。」

真剣に仕事をするということや、ふさわしく成長する必要の認識というのはすべてにおいて自分がそれをやろうと決めているかどうかによります。言われたことをただやっていて上手にこなしていくのが仕事であれば、それは真剣に仕事に向き合ったのではなく責任は誰かに任せて自分は表面上のお手伝いをしたことにすぎずこれはとても楽なものです。

しかし実際に真剣に自分が責任を任されたと自覚し、使命を果たそうと思うのならばそこには必ず重責がかかります。しかし、その重責を抱えながらも最期まで遣り遂げることができたとき、人は真剣になりそして相応しい成長を得るように思うのです。

昨日、子どもの発達のことで話をしましたが子どもの成長に真剣に責任を持てば楽よりも楽しいを選ぶようになる、そして苦しくても楽しいと思えるようになるということを伝えましたがこれも同じようなことです。

本来は自分が責任を持つから、全ての出来事に真剣になってきます。結局は、この責任感そのものが生き方を決め、働き方を決め、内容も結果も決めていくように思います。

責任感が強い人ほど、本気さや真剣さに周囲も圧倒されていくものです。その凄みとは、その責任を担う覚悟、責任というものの本質の価値を獲得している心構えにあるように思います。

任されている仕事とは何なのか?
そして任す仕事とは何なのか?

人は任されたか任されていないと思ったか、互いの自覚において責めを負うように思います。もう一度、さまざまなことを見直し自覚していくことから責任感を学び直していこうと思います。

福の有難さ

子どもの仕事をしていると、様々なことに向き合うことが多くなります。

訪れてきた出来事にひとつひとつ向き合い自分の脚で歩んでいく中で、自分で決めて歩んだのだからといっても時折、理不尽な出来事に遭遇し運命に悲嘆にくれることもたくさんあります。しかし、同時にご縁の有難さを実感し心から尊敬し感謝していく歓びに出会うこともたくさんあります。

実際の人生道場の現場では、様々な課題があり理想や理念があるからこそ大変な悩みを一人抱えて苦しんでいる人たちにもたくさん出会います。そんな時は、自分が何かこの方の御役に立てないだろうか、この人の苦しみにもっと寄り添うことができないだろうかと思います。

そうしてみてみると、どこの場面でもどこの時にも、心が素直であるかどうかは試されてきます。人は無意識に私心や私欲が入れば、急激に視野が狭まり本来の出来事の実相が観えなくなってしまいます。そうしているうちに出せるものも出せなくなってとても苦しみが深くなります。そうしていることで不幸なことが起きているのではないかと不安になってしまいます。

しかし、素直さというものはそういう時こそ自分に矢印を向けていくことで正しく向き合うことができ、深い味わいを噛み締めその起きた出来事の真の深さの気づきを得るように思うのです。

松下幸之助にこういう素直な言葉があります。

「よく考えてみると、幸、不幸の両面があるということが、結局は幸福なのもしれません。不幸な姿を一瞬でも味わうことによって、初めて幸福 のありがたさを知ることができるからです。」

人はずっと幸せでいることが果たして幸せなのでしょうか、そしてずっと不幸であることが不幸なのでしょうか。素直になって向き合ってみると、そういうものを噛み締めて味わっていくことではじめてその福の有難さに気づけるのかもしれません。全てのことをいつも感謝に換えていく、いつも御蔭様に換えていく、いつも有難うと手を合わせていく、そういうことで居られ続け、実践できる福のままでいることが本当の素直というものかもしれません。

自分の人生を歩んでいく中でその時々にありのままを受け容れ、素直に向き合い、生き方を見つめ、その一つ一つを尊い体験をさせていただいたと感謝していくことが真っ直ぐに生きたということかもしれません。

子どもたちにどのような姿を見せていくのか、先を往く私たちは考えていきたいと思います。

視野の寛さ

先日、視野を広げるということで話を深める機会があった。

視野というのは、別に広くだけを観ることが視野ではありません。よく視野というと、鳥の目、虫の目、魚の目というような見方の話や、多面的に、大局的に、360度から見るなどという言い方もありますがそれだけではないように思うのです。

頭で考える視野というものと、心で捉える視野というものがあり、そのバランスの中で見ることが観ることにもなり全体を直観で捉えて本質を見抜くことができるように思います。

例えば、心で捉える視野の方は他人のことを心配したり配慮したりするもので祈りに似ているのですが自分のこと以上に周りのことに関心を持ち、仁の実践をしていくようなものだと思います。

人は自分のことでいっぱいになり余裕がなくなるとすぐに視野が狭くなります。あの視野というのは、別に物の見方が狭くなるのではなく心で物が観えなくなり頭でっかちになってしまっているという意味で使われて いるのです。

この場合の視野の狭さというのは、他人のことが思いやれない、周りのために自分を使えない、他人に迷惑をかけてしまうといったものになりいつも後悔が付き纏うものが多いのです。

強さと優しさというのは、他人のことを思いやれるものの時に使われる言葉であろうと思います。いつも周りのことを心配し、自分を正しく役立てていこうとするときの心がけ、その時にはじめてゆとりが出て視野は寛がっていると言っていいとも思います。

ゆとりの語源とは、ゆったりから来ているとも言われます。このゆったりとは、「寛(ゆた)」+「たり」であり豊かであるという意味であるといいます。

他人のことを思いやれることを学ぶのが真のゆとり教育かもしれません。ゆとりは良くなかったとか、ゆとりのことを間違って使っている人が多いようですが本来、真の寛り、豊かさとはそれは人間が生きていく上でとても大切なものであったはずです。

余裕を失い自分しか見えなくし殺伐とした中で知識を詰め込むことよりも、視野の寛いことの中で人は本当のことを学ぶように思います。

この体験もまた糧にし、学び直しを深めていこうと思います。

素直とは正しく向き合うこと

覚悟というものを認識するのに逃げないというのがある。

逃げないというのは何を持って逃げないと定義するかと言えば、来たものに私心を入れずに真っ直ぐに向き合うことをいうように思います。

これを正対するといいますが、それではその反対は非正対というのではなく斜に構えるとか逃げるという言い方をするように思います。

本来、人は素直かどうかなど自分のことは実はよくわかっていないものです。それは、自分が自分を分かっているようで自分のことが一番よく分かっておらず、無意識に自分を正当化しては自分と向き合わないように都合よく調整していることが多いからです。それは私心や欲がメガネを曇らせているからのように思います、自分を直視するということは私欲にとって都合が悪いことが多いので避けて通っていたいからです。

例えば、全ての問題や事物はすべて自分の内面の問題から発生するのに対してそれを何かのせいにしたり言い訳をするときなどもこれは自分が向き合いたくないからそうしているのです。特に影響力のある人は、自分を知るということから逃げていては人はそれを一緒に学ぼうとしなくなっていきます。だからこそ、人はみんな自分という生き方としてどのような心構えをもって心掛けを大切に行うかで、他人から尊敬されたり認められたりして互いの信頼を紡いでいくように思います。

そう考えてみると、この心の構え方というものが生き方のことをいうのかもしれません。

心構えとは覚悟のことで、自分が決めたことから逃げないということに他なりません。何を決めたか、何を信じていくていくか、人はそれをもって自分らしいというのかもしれません。だからこそ人はその都度、覚悟を自問し、それを周囲に確認し、自らが正しくいようと向き合うことで自分らしい生き方を貫いていけるように思います。

それを自分の都合で決めたことを誤魔化し、事があれば逃げて、そして自分を正当化していけば素直に反省することなどはできずそれによってまた同じ過ちを何度も繰り返してしまうように思います。

間違いは間違いとして、信頼できる人に正してもらおうとする姿勢そのものが素直な姿でありそういうものが逃げない覚悟ではないかと思います。そしてこれは紙面や机上で学ぶものではなく、実体験を通じてその時、自らの道に照らしてどのように判断したかということが自分を生きたということになるのでしょう。

万物は相矛盾し、渾沌としているのだから永遠のテーマばかりでこの世は存在します。
それは友情であったり、愛情であったり、そして信頼でもそうです。

そもそもつながりの中で異なるなどという人間の複雑奇妙さのことなど分かるはずもありません。だからこそ一日一日と、日々に発生する出来事に真心で正対していくことがもっとも価値のあるものかもしれません。

このブログもそうですし、世の中には終わりがあっても永遠のテーマがあることばかりです。
精進していこうと思います。

中りを着ける

中庸や中道というように真ん中を捉えることはとても難しいことです。

頭で考えることばかりが多くなると、あれやこれやと実行実践するよりも先に脳が処理していく中で次第に狭い範囲の答えの中に自分を埋没させていくからです。

例えば、理念といったものや大義というものだけではなく日々の仕事の一つ一つにいたるまで真ん中をとっていくには具体的に行動していく中で気づいていくしかありません。話の理解などもそうですが現場がなぜ大事かといえば、現場の中で行い取り組む中で説明をするのではなくそこに真心や智慧が出ているものを掴むというような理解があるからです。

いくら何度も説明をして分からせようとしたとしても、それでは表面上が分かった気になるだけで実際は分かったわけではありません。説明の中に真実はないのは、実際はすべて行動した経験や体験から得た智慧を説明しているからなのです。

優れた人たちの話というのは、その人が体験した話で得た智慧を伝えられる最中に自分もそれが分かる気がするという直観の勘所、つまりは自分の体験で得た智慧と照らして理解するのが中をとることになるからです。なんとなく分かる気がするというのは、全身全霊丸ごと照らした中の分かるであり、知識だけで分かった気になったわけではありません。

人がそれを分かるようにしたいのは単にそれを理論づけて記憶するために、なんとなくではなく分かる状態にして記録するための知識であるように思います。しかしこの知識が智慧だと勘違いすると、分かったことでなんとかなると思ってしまう間違いが出てくるのです。これも今の時代の詰め込み教育の弊害だと思います。学生と社会人との彼岸はここに焦点を当てた方がいいのかもしれません。これを持つといつまでも社会で役に立つ人材に換わらないからです。

まず分かった気にならないというのは、説明を聞いてもできないのだからまずは自ら実践し取り組む中で気づいていこうといった素直な姿勢のことをいうのです。実践者に話を聴けば、真理や中庸はとてもシンプルに語られます。

しかしそれがいくら頭で分かっても、実践してみればうまくいかないことばかりなのは実力が不足しているということです。それは実際に試行錯誤していく中で、分かった気にはならないけれどなんとなく分かるようになってそののち、自然に同じようなことができるようなるのが中りをつけるということなのでしょう。

自分から求めなくなるのは、実践の量や実行の量が足りないからのように思います。知識を学ぶのは、まずは実地実行を尊ぶ姿勢を身に着けてからのように思います。一理を学ぶには一理を行えというのは至言のように思います。

時間をかけて、その理を現場でものにしていくことを継続したいと思います。

慙愧の士魂

文天祥の生き方から、学び直すことがたくさんあります。

元々、南宋の宰相でしたが元に滅ぼされる間、数々のものを捨て去って大義のために尽くしていた人です。最期は、その命も捨てて義に生き、そして仁を為します。

仁とか義とかというものは、机上で理解するものではなくその身を捨ててこそという境地ではないかと思います。

公治長第五の中に「子張問曰、令尹子文、三仕爲令尹、無喜色、三已之、無慍色、舊令尹之政、必以告新令尹、何如也、子曰、忠矣、曰、仁矣乎、曰、未知、焉得仁、崔子弑齊君、 陳文子有馬十乘、棄而違之、至於他邦、則曰、猶吾大夫崔子也、違之、至一邦、則叉曰、猶吾大夫崔子也、違之、何如、子曰、清矣、曰、仁矣乎、曰、未知、焉 得仁。 」がありました。

ここでは、二人の人物が挙がってこれらは仁ですかと子張が孔子に問います。しかし一人は忠実な人で、もう一人は潔白な人だといいます。

単に言葉で理解できるものではないのがこの仁という概念です。

いくら思いやりを持てといってもそうはもてるものではなく、いくら真心でといってもそれは真心が分かるはずもありません。他人にはそういうものは伝えるものでも頭で理解するものでもないからです。

ただそうしたいからそうするだけの理由で、自らの身も名も捨てていくというのが本来の仁というものかもしれません。自分が大変なときに、他人のことも大変だと思えていること、そして自分のことよりも偉大なもののために自分を使うことができること、そういうものの中に真心を感じます。

文天祥は、自分の覚悟を生きた人のように思います。
吉田松陰にも同じ心を感じることがあります。

何を求めているのか、何を理想とするのか、何のために生きるのか。
そこに志とは何か、至誠とは何か、真心とは何かを感じます。

その文天祥の辞世の句には、留魂録と同じ光を感じます。

「孔曰成仁(孔(孔子)は仁を成せといい)
孟曰取義(孟(孟子)は義を取れという)
惟其義尽(惟(た)だ其の義を尽くさば)
所以仁至(仁に至る所以(ゆえん)なり)
所学何事(学ぶ所は何事ぞ)
而今而後(而今而後(じこんじご))
庶幾無愧(庶幾(こいねがわ)くは愧(はじ)無からん)」

義を尽くせば仁になる。
常に自らの覚悟に愧じないでいることが学ぶこと。

魂を揺さぶられる詩に、見守り励まされより深く前へ進もうと思います。

 

信念の醸成

氷のように冷たい朝に、庭の野菜たちも耐えています。
よく観察していると、必ず春が来るのを知っているかのように耐えているかのようです。

朝が来ない夜がないように、春がこない冬もありません。
まるでいのちは四季は平等に公平にすべての生きものにあることを知っているかのようです。

なぜここまでしても耐えるのか、そこまでしても生きているのか、そこには浩然の気があるからです。生きものはどんな境遇にあってでも生かされる、生きようとする、それはその奥に自分をいかしめているものがあるからのように思うのです。それを氣ともいい、それを魂ともいうのではないかと思うのです。

孟子の天が将に大任をの詩と同時に、ふと、文天祥の正気の歌を思い出しました。

この歌になぜかわかりませんが、大変な共感を覚えたのをいつまでも忘れません。
特に後半の詩に、勇気を抱きます。

「豈に他の繆巧の有りても,陰陽賊ふ能はず。此の耿耿たるの在るを顧みて,浮雲の白きを仰ぎ視る。悠悠たる我が心の悲み,蒼天曷ぞ極り有らんや。哲人の日已に遠のけど,典型は夙昔に在り。風檐に書を展きて讀めば,古道顏色を照らす。」

歩みが止まらないのは、役本懐を得た真の歓びと志塊が永遠に燃えるからでしょう。

この世に正氣があるからこそ、その氣に順応して我が心を照らす。
そこに古道を観じれば、正にその天の計らいに感動する。
生死は氣、廻りは季、時空は機、浩然と輝く光に向かい心が清く畏みます。

信念の醸成を楽しもうと思います。

余計から余慶へ

世の中には自分だけが正しいということはありえません。なぜなら世界は無限に正しいというものが存在しているからです。ある生きものの中で正しいと思い込んでも、他の生きものからは正しくないと思えるようなこともあります。

例えば自然界の弱肉強食ではないですが、私たちはつい万物の霊長などと食物連鎖の最高峰に立っているから次第に自分たちが何でも食べて当たり前みたいになっていますが、他の生きものからすれば同時になぜこのような理不尽がまかり通るのだろうかとも思っているかもしれないのです。

そういうことを忘れていく中で、様々な失敗がおきるから私たちは大切なことはいつまでも忘れないようにと様々な行事や礼儀、作法を通じて余計なことをしないように今まで努めてきました。

自然界では、あるがままにそれぞれの正しいが中和して共生するように成り立っています。そこには数々の正しいが渾沌と混ざり合い、そうして絶妙にかみ合って調和しているのです。私たちが謙虚を学ぶ際に、自然がどのようになっているかと思うのが最も納得できるものかもしれません。

以前、謙虚ということを学びはじめてからかなり時が経ちましたが課題というものはいつも刷り込みと共に時間をかけては訪れるものです。自分が正しいと思い込むことで謙虚というものから遠ざかるということも体験を積み上げていく中で気づいていきます。

そもそもあらゆる方面の正しいを理解し、あらゆる正しいを伸ばしていくことが周囲を活かすということかもしれません。結局は、自分も周りもみんな正しいというのが真理なのです。

競争や比較、評価の中で育つのだから生きていくためには自分が正しくいるためにそれぞれに力をつけてきたともいえるのでしょう。その力が不自然を呼び、今のような国家や人間中心の社会を築いたのでしょうがそれを呑み込むことができるのでしょうか。

余計なことをしないで、余慶なことをしていくという日々。

常に私たちは自分を世界の御役に立てさせてくださいという心が大事なのでしょう。意固地になっていくのは、つまらない生き方を選んでいるように思います。かんながらの道を往く中で謙虚ということの真意を深く感じて学んでいきたいと思います。