氷のように冷たい朝に、庭の野菜たちも耐えています。
よく観察していると、必ず春が来るのを知っているかのように耐えているかのようです。
朝が来ない夜がないように、春がこない冬もありません。
まるでいのちは四季は平等に公平にすべての生きものにあることを知っているかのようです。
なぜここまでしても耐えるのか、そこまでしても生きているのか、そこには浩然の気があるからです。生きものはどんな境遇にあってでも生かされる、生きようとする、それはその奥に自分をいかしめているものがあるからのように思うのです。それを氣ともいい、それを魂ともいうのではないかと思うのです。
孟子の天が将に大任をの詩と同時に、ふと、文天祥の正気の歌を思い出しました。
この歌になぜかわかりませんが、大変な共感を覚えたのをいつまでも忘れません。
特に後半の詩に、勇気を抱きます。
「豈に他の繆巧の有りても,陰陽賊ふ能はず。此の耿耿たるの在るを顧みて,浮雲の白きを仰ぎ視る。悠悠たる我が心の悲み,蒼天曷ぞ極り有らんや。哲人の日已に遠のけど,典型は夙昔に在り。風檐に書を展きて讀めば,古道顏色を照らす。」
歩みが止まらないのは、役本懐を得た真の歓びと志塊が永遠に燃えるからでしょう。
この世に正氣があるからこそ、その氣に順応して我が心を照らす。
そこに古道を観じれば、正にその天の計らいに感動する。
生死は氣、廻りは季、時空は機、浩然と輝く光に向かい心が清く畏みます。
信念の醸成を楽しもうと思います。