幸福論については古今東西、様々な人が様々に語られます。
人は誰しも幸福になりたいと思っています。しかしその幸福とは、物質的なものがあることやないことなどではなく、在り方そのものが関係しているように思います。
人が真に幸せを思う時、それは当たり前の中に実感します。
そして福を思う時、全てのご縁に結ばれていることの中に実感します。
そう考えてみると、ないものの中にあり、あるものの中にもあるのがこの幸福というものかもしれません。ただそれを感じることができるかできないかで左右されるのかもしれません。幸福の反対は不幸ではなく絶望だと聴いたこともあります。
この絶望とは、希望のことで、人は真に絶望を感じる時に希望を見出すというからです。そうであればやはりこれも福であり、幸せの種になっているように思います。自分の見方次第で如何様にも幸福になれるというのが真意なのかもしれません。
先日、義務や責任を引き受けるという話を考えているととても共感できる文章に出会いました。これは星の王子様のサン・テグジュペリの思想ですが、それをイエローハットの鍵山秀三郎さんが紹介しています。
「ほんとうの幸福というのは、決して自由気ままに生きることではありません。そこは幸せはないと思います。義務を甘んじて引き受ける、さらには自ら進んで引き受ける中にこそ、真の幸せがあるのです。」「幸福への原点回帰」(文屋)
つまり、自分の自由が幸せではなく大いなる義務を自らが甘んじて引き受けることこそ幸せがあると言います。これは自分勝手に生きれるから幸せではなく、不自由と思えても自分以上の偉大な使命のために自分を使役できることが幸せなのだと言います。
さらにこう続きます。
「逆に、ふだんから誠心誠意を尽くす勤勉な人に対しては、周囲から干渉されたり、監視されることがなくなり、自由に幅が広がっていきます。真の自由を手に入れるのは、自分の役割や任務、使命を自覚して、自らを律しながら、日々、地道に努め続ける人だと思います。自分のすべきことを満足に果たすことなく、自由ばかり求める人は、自分で自分を縛りつけてしまうのではないでしょうか。」「幸福への原点回帰」(文屋)
一見、何かの役割が多い人を人は不自由に思います。今の時代は特にそうです。私にも師と仰ぐ人がいますがその人は、時間を惜しむように理念や使命に生き、自分を滅して他人様のために尽くして生きています。それは野心ではなく、真心でいるからできるように思います。自分のためと生きる人と、他人のためにと生きる人。本来は、他人のためにと生きていることが自分のためになり、それが不自由にいるようでもっとも自由なのかもしれません。
人はいのちはつながりの中に存在するものです。それを自分らしいといいながら自分勝手にすることを自由とはき違えて我儘をすれば孤独になることは必然です。だからこそ、大きな使命のために自分を役立てていこうとすることが幸福そのものなのかもしれません。
他人が不幸と思うから不幸なのではなく、幸福と感じられないから不幸であること。そして真の幸福は、至誠や真心を貫いたところにいつも見守っているものだと実感します。これからも折あるごとに幸福論について考えてみたいと思います。