生活習慣病

生活習慣病というものがあります。

これは日々の生活の中で知ら知らずのうちに病になるようなことが習慣になってしまっている病気とも言えます。これは聖路加国際病院理事長の日野原重明先生が、「成人病は本当は習慣病」であると鋭く見抜かれたところに端を発しています。

人間が病気になるというのは、どこかのバランスが崩れ調和しなくなったところがカタチとして顕われてくるともいえます。例えば、自然でいえば本来は大調和の中で健康にそれぞれの生を全うし自らを活かし切っているのがあの植物たちや虫たちです。

しかし私たち人間は、自然からかけ離れた生活をする中で本来の人間らしい生活が乱れそれが当たり前になってしまうと次第にその習慣そのものも疑うことがなくなりどれだけ直そうとしても治らない病にまでなってしまうということです。

どのような病気であれ、何か不自然なことを自らが起こしているのだと自らがもし気づいたならばそれを断ち新たな生活習慣を持つことで今まで自分で蓋をしていた自然治癒が働いてくるように思います。しかし落とし穴があって変わらないのは、自分がそれに気づかないからいつまでも同じことを繰り返してしまうともいえます。痛い目をみて、素直に反省すればまた違ってくるかもしれませんがほとんどの人は言い訳をしたり矢印を他に向けるので気づく機会も喪失しています。そしてこれは決して身体だけのことではありません。

自分自身の生き方も精神もそうですが、自分が知らずしらずに不自然な生活の習慣を持ってしまっているのにもかかわらずそれに気づかず、また具体的な習慣を改善し今までのものと決別するのでもなく病の原因はそのままに病気を治してもらおうと思っても、自分が直す気がないものを誰かが治せるはずはありません。

つまり本来の全ての病気の本質は、自らの生活習慣の見直しにあると私も思います。
そしてこの生活習慣とは、人間本来の素直な姿で生きる決心をするかどうかのことです。

よくよく見まわしてみたら、今の時代は経済優先の社会の中でお金があれば何不自由なく暮らしていけるという不自然な中で私たちは生活習慣の中心を置いています。本来は、不自由な中に自分を置いては素直に自らがその都度都度に心の置き所を換え、万物万人に親しみ互いに手を取りあって感謝や共生、貢献などを中心において暮らしていくのが自然の大調和だったはずです。

しかし病気になっていると自覚したならば、そもそも自分の発想が、また暮らし方が間違ってはいないかと気づき、大事なことを忘れないような実践を続け、根本の生活習慣をどちらに置くのかを決心しないといつまでも改善されないままに周囲に迷惑をかけることになると思います。

自らの病の根源を断つというのは、生活習慣を変えることにより自らを律し立てるということがよりよく生きることを活かすことになると思います。自立するには、自らの生き方そのものの中心を常に何処に置くかということを生活習慣になるまで実践していく必要があるのです。

成人病とは何か、生活習慣病とは何か、心身共に悩み苦しむ世の中だからこそコンサルティングを実践する人間として真から立て直していく必要があるように思います。大都会の中で、自分を身を置きつつも環境のせいにしてはいけないと自戒します。

日々に実践を大切に、自他一体に生活習慣病をひとつひとつ改善していきたいと思います。

真実の満足度

先日、尊敬している千日回峰行を遂げられた大阿闍梨の塩沼亮潤の新著「執らわれない心」を拝読する機会があった。その他の著書もすべて大変素晴らしいものばかりで、生き方に共感することばかりです。

素直に正直に生きるということほど、誰にとっても難しいことはありません。しかしそれを修行だとして日々に直向に取り組む中で得た学びや気づきを同じように苦しむ人たちのために乗り越えてそれを伝えていこうとする真心。

こういうものはたとえ仕事がどの仕事であっても、場所や立場がどうであっても私たちの人生の魂や心を磨く大切な使命であろうとも思います。ご自分を磨きながら他も磨くことに私も人との間の幸せを噛み締めることばかりです。

今のような時代には、特にこのような方々の存在に私自身とても勇気を戴きます。さて、その著書の中はすべて素晴らしいのですが最後の方に印象に残る言葉がありました

「苦しさには強いが、ぬるま湯には弱い。これが人の心。」

とあります。

先日、幸せとは何かと考えている機会が多かったのですが人は不満がなくなればなくなるほどに不満を言い始めるように思います。そして満足が続けば続くほどに、自分が不幸であるように実感していくのです。

不思議なことですが、欲や感情が満たされればされるほどに心の方は貧しくなっていくかのようです。目標が高ければ人は不満を抱きます、その目標によってさらにその不満のエネルギーを他の何かに集中していくことができるように思います。例えば、理想が高ければそれが実現しない不満を探究心や道を行じる苦労をする方へと向けていけるからです。

しかし理想が低く、現状に満足してしまえばぬるま湯のようになり心は次第に弱っていき何もしないうちに時間だけを浪費してしまうように思うのです。茹で蛙の故事ではないですが、ぬるま湯に浸かっていて満足しているうちに下から沸騰してきても分からないうちに蛙が死んでしまうとありますが、あれは真実だとも思うのです。

今のように唯物的に社会を形成し、いつもお金や物で満たしていたら心はもう動かなくなってきます。心の不満とは、実は幸せを生み出す種でありそれがあってはじめて心が成長していく歓びもまた実感できるように思うからです。

目標を高くするということは、現状に満足しないということ。そしてそれは成長するということ、いつまでも自分を高め続けて今を充実させていくために挑戦と改革を続けていくということに他なりません。もともと私たちの心は、苦しいことと楽しいことに働き、便利と楽には働けないのかもしれません。

自分を役立てていくということは、進んで自ら苦しみの中に入りその中での成長を楽しんでいくことなのかもしれません。最後に、高杉晋作の言葉で締めくくります。

「艱難を共にすることは出来ても、富貴を共にすることは出来ない」

役立てるというのは、身を捨てるという覚悟なのかもしれません。目標というものを利他で立てようとするのは志に通じているように思えてなりません。志を立てるということは、身を捨てる覚悟のことかもしれません。

今のように富貴が溢れる時代は、敢えて不満のままやストイックさを忘れないでいることが流されない今を生き切るコツなのかもしれません。

自分自身も満たされ過ぎてはいないか、当たり前が間違っていないか、常に省みて真実の満足度とは何か、幸せを与える、役割を果たすとは何かをもう一度見直したいと思います。

天分を出し切る

一日一日を出し切るという実践をするとはどういうことかと考えてみる。

よく一日一生という言葉で使われるように、日々は二度とないのだから大切に使い切るということで語られることが多いように思います。もしも明日死ぬとしたらと考えて遣り切るのも、人生は二度ないということを認識するためのようにも思います。

しかしこれをよく考えて観たら、それを自分ひとりの野心や野望のために遣ろうとする人と、自分に与えられた天分を活かすために遣り切る人とはまた異なっているようにも思います。それは心の寛さ狭さにもあるようにも思います。

自分自身はどんな天与の才能を与えられているか、それをもっと世の中のために生かそうとする人は、毎日を絞り出し、遣り切り、出し切って、成し遂げようとします。逆に、そういうものは自分のものだと自分本位に与えられていることも忘れてしまっている人は使おうとはせずに自分が楽をする方へと自堕落していくものです。

世界で独りしかいない自分を何に役立てていこうとするかは、与えられた自分の天分や本分に感謝してそれをより皆様のためにお役に立てたいと思う時に発揮されるように思います。自分のものと思うところが心の狭さになり、それはみんなのものだと思うことで心は寛く豊かになります。

そしてリーダーは、自分の天分も活かし、同時に他人の天分も活かすことができるかによるように思います。

庭を眺めればそれぞれの花々や植物が太陽の光と透明な風、そして潤いの雨や互いの存在の中で百花繚乱それぞれに自分の色を放っています。その放っている姿に、天からいただいているものをお返ししようと自分を精一杯出し切っている心があるように感じるのです。

自分の心を出し切るというのは、与えられたこの自分の全てを全部与えらた量をお返ししようといった心の働きのことをいうのかもしれません。幸せというものは、そうやっていただいたものを循環し合う中ではじめて深く寛く実感できるものかもしれません。

日々、ちゃんと使い切ったかどうか、いただいたいのちをお返しできているかどうか、内省し、あの花たちを見習ってどんなお役に立てるのかを楽しみながら自分の花をしっかりと開花させていきたいと思います。

自分の天分を出し切る一日を省みて、自律の日々、御恩返しを味わっていきたいと思います。

目標の意義

人生の目標をどのようにするかで、生き方だけではなくその人の在り方が明確になっていきます。

しかしこの目標というものを自利で立てる人と、利他で立てる人がいるように思います。目標が大切なのではなく、その目標は何のために必要なのかを理解している人たちだけがその目標を自己管理に活かせるのではないかと思うのです。

例えば、緒方洪庵に「医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。 決して有名 になろうと思うな。また利益を追おうとするな。 ただただ自分をすてよ。そして人を救うことだけを考えよ。」(21世紀のきみたちへ朝日出版社)がある。

これは利他から立てられる目標であり、そもそも自分の行いが世の中の御役に立てるようにと願い適塾の基本理念として指導されたものです。同じく吉田松陰もそうですが、目標が高い人は悟ることやできる人になることに興味があるわけではなくその後どうするかということに重きがあるのです。

目標が低すぎるというのは、自分のことだけを考えてしまって立てている目標のように思います。自利というのは、自分が善ければいいだけで止まってしまいそれをどのように世の中の御役に立てていけばいいかが目標とつながっていないからのように思います。

自分が生まれて今あるのは、周りの皆さんが子どもだった自分をここまで育ててくださった御蔭ともいいます。よく賢すぎる人は自分だけで育ったように勘違いをしますが、明らかに周りの方々のご縁や忍耐強く見守っていただいた方々の教えによって今の自分が形成されているともいえます。

人は自分で育ったのではなく、様々な御恩によって育っているからです。

だからこそ、その御恩をご縁をより多くの人達や世界へ還元していこうとするとき、目標が必要になるように思うのです。何をしてお役に立つのかを決めるのは、自分が高い理想に向かって自利の人よりも、利他の人であろうと決める生き方が定まることに似ていると思います。

常に利他でありたい方を優先することが、 ブレナイ生き方を持つこととイコールのように思います。人を信頼するのも、絆を結ぶのも、人生をより多くの方々にお役に立てるのもこの目標というものの根底にある自利か利他かがあってのことのように思います。

他人の御役に立てるようにしてはじめて、人間を育成していると思います。その人だけをよくするのではなく、その人が世の中を善くする人にしていくことが塾の本質かもしれません。今は大事な分水嶺、目標の在り方について深めてみようと思います。

天の計らい~体験の妙味~

人生は様々な体験をすることで新しい自分を発見し広げていくことができるとも言えます。
また体験こそが人生だといっても過言ではありません。

しかし今まで体験していないことはどこか敷居が高く勇気がいるものです。そういうものを好奇心や向上心で取り組んでみるとそこに自分が今まで気づきもしなかった新たな世界が広がっているように思います。

どうも私は、好奇心旺盛のタイプで自分の直観に従って新しいことに取り組みたくなる性分のようでワクワクドキドキしながらもいつも新しい体験をしたいと感じてしまうようです。そう考えてみたら、その先にある未来に対してのイメージが善いか悪いかではなく体験することを大事にしているからかもしれません。

人生は一度きりですから、教科書通りやマニュアル通りにいったから幸せというわけではないはずです。一度しかない人生であるから、様々な体験をしていこうと覚悟を決めればその日々は如何様にも装飾していくことができるからです。

そしてこの装飾していけることで一日の終わりの夜と新たな一日のはじまりの朝に面白いなぁと元気いっぱいに天の計らいとご縁の不思議さに驚きと感謝が湧いてくるのです。

面白かった一日は、ご縁や体験を心から楽しみ切った日であったように思いますし子どもはそうやって体験を通して感動し好奇心を全開にして充実した幸せの時間をもっていくように思います。

体験をすることも体験をさせてもらうことも、すべては天の計らいと思えば怖くてもいってみようと思えるのかもしれません。そしてそうやって何かの天の計らいといつも感じていれば同じ体験であっても楽しみ方を工夫したり気づかなったところを発見して工夫ができたりと常に学びに彩りが足されていくように思います。

すべきばかりで日々を過ごすのではなく、体験をしたいと飛び込んでいくことが好奇心に刺激を与えて育てていくことかもしれません。そして幸せとは体験そのものができる豊かさの中に飛び込んで生き切っているときのことをいうのかもしれません。

人生は苦しいことも悲しいことも辛いことも嬉しいことも有難いことも、体験があってこそです。大人たちがまず子どもたち以上に楽しめば子どももきっと体験の尊さに気づいていつまでも子ども心を失わない元気いっぱいの人生を謳歌していけるように思います。

好奇心が求める日々を分かち合いながら充実した学びの妙味を感じていきたいと思います。

道跡

昨日、京都農園の関係で福知山にある石原の大師山霊場を尋ねる機会がありました。

ちょうど時間があったので古文書を調べていると、戦国時代の頃には大きな聖地として栄え参拝者がたくさん訪れていたようです。今では高速道路ができて、区画整理され、目立たないところでひっそりとお地蔵様が安置されています。

先日の地元の神社もそうですが、かつては家々に伝承され大切にされてきたものも繫がりが薄れていく中で消失していきます。時代時代の激変の中で、今でも残り私たちに継承されているというのはかつてそれを守り続けて改革を怠らずに取り組んだ方々の真心が残っているからのように思うのです。

そういうものを感じようとひとたび思えば、今まで見えてこなかった人の繋がりや地域の文化、歴史、そして人々の生活や心を感じることができるように思います。

史跡を巡るのも、歴史を辿るのも、巡礼するのもすべてはかつてのご縁に触れて今の自分の有難さを実感するためかもしれません。

当たり前に生活している私たちですが、この当たり前ができるのは今までの時代を生きた人たちが精いっぱい自分たちの責任を果たしたからのように思います。今を生きる私たちは、自分の人生の責任をどれだけ持っているのでしょうか。

歴史も文化も、生活も習慣もすべては今の責任を果たして行く中で次世代に継承していくものかもしれません。破壊されても、消えかけていても、それを継ぐものがあればまた必ず復興し、道心は続いていくように思います。

昨日も消えかけた八十八箇所を感謝で廻りながら、そこに確かにかつての人々が踏み固めた道跡を確かめました。

時代時代に塵あまたが降り積もり消えかけようとする道に出逢えば、自らの埃被った手垢を洗い清めつつ跡を辿り、永劫のかんながらの道を践みしめていきたいと思います。

 

 

義の絆

義兄弟という概念があります。

これは固い契りにより血縁のない男性が兄弟に等しい関係になると書かれています。

世間では血縁がないだけで使われることが多いようですが、そもそも義という言葉は人の道のルールを顕すことであるから何をもって義と定義しているかでその意味も価値も異なります。

ただ血縁ではないというところが注目されるのではなく、本来は固い契りということが意義になるように思うのです。有名なものに三国志の劉備、関羽、張飛があります。他にはチンギスハーンとジャムカ、源義経と弁慶のように生涯の誓いを共にした関係があります。

生まれた場所が違えども、育ってきた内容が異なっても、死に際して目指しているところは一つ、私たちは魂の兄弟であるという使われ方かもしれません。

共に一度きりの人生を道を歩んでいくなかで、それぞれの人生の目的や目標というものを持ちちたいと切に願います。すると唯一無二のご縁に導かれ、運命的に出会った方と生死を超えたところで決めた生き方を信じ切るという意味かもしれません。

どんなことがあってもお互いの信じる道を信じ切るというところを同じくできることほど固い絆はないと思います。特に今のような時代は、関係性が希薄になり何を信じていいのか不安になってしまうような情報に溢れています。

そんな中でも清廉潔白に共に誓いを果たそうとすることに人生の美しさもまたあるように思います。

今まではあまり意識していませんでしたが、今年は「義」についての出逢いがたくさんあります。義の絆は、目には見えませんが確かに心の中に存在しています。そう考えれば、私たちの繋がりは切っても切れないような強い絆で結ばれているのです。

全てのご縁は互いを磨くための学びとし、さらにご縁を深めていきたいと思います。

有難うございます。

天意

ご縁を深めていると色々なことに再発見ができます。

例えば、自分というものや自分の周りのものをよく考え直してみると自分のものであることは一つもないことに気づきます。自分がどこからやってきたのか、自分が何をしているのか、それも全ては天の計らいというか天意というもので動いていることを実感するからです。

今の家族とのご縁や、友人、仲間、同志、様々な人たちとの出会いもご縁もまたいただいたもので自分のものではありません。この世に生まれてきてから今までも今もずっとそれは何かのご縁によって結ばれているからです。

この実感は、すべての体験そのものが自分のものではなく天が与えてくださったと思っているときに目には見えないけれど確かに存在する天意を覚えるからです。

例えば事故などにより、互いに傷つき傷つけあったとしてもそれもまた天意と思えるかどうかによるのです。当然、衝撃があり感情もあり同時に思いやりもありますがそれが天の見守りによって助けていただいていると互いに思えるかどうかによるものと思います。

つまりご縁とは、その間にあるもの中心に置いているものの存在に気づいてその存在にいつも感謝しているときにこそ真に実感できるのではないかと思えるのです。

つまり天意というものは、いつも「有難う」という時にこそ実感できているということになります。
そしてこの有難いと感謝するのは、その天の計らいそのものが全て善いご縁になっているという意味で本来は使われている言葉であることに気づくのです。

そのような天意が働く言葉を用いることは、その中心に共に在ることと同じであるのです。 その根幹には、全てのものは神様が授けてくださった体験、天が与えてくださった大切な機会、そういうものであると実感しているときに活きている言霊であるということだろうと思います。

何かがあったとき、常に感謝に転じることがご縁を実感することだと思います。

天意に感謝とともに、与えてくださっている時間や人を大切にしていきたいと思います。

妙なる問答

地元にはかつて神武天皇が歩いた足跡が様々な伝説や伝記とともに神社に残っています。

私の幼い頃から通う神社にも様々な言い伝えがあり、今でもそれが残っています。
伝承では、伊弉諾の命、神武天皇、神功皇后が訪れた由緒ある場所です。

ここに流れる汐井川は、霊泉であるとし様々な災難をふり払うとされ天の真名井川よりも優れていると歌にも詠まれているほどです。そういうことからかつては評判もよく、日に数百人以上訪れていた時もあるそうです。

時間が経つと、ここで何があったのか、かつて何があったのかなどは思い出されもしませんがここに確かな場力が存在していることは直観できるものです。なぜか分からないままにいても、何か感じるものがあれば信じて行動するということはとても大きな意義があります。

なぜなら後から、その不思議なご縁や出来事の意味が明らかになっていくからです。全ての関係するものに中にいる私たちに意味のないものは存在しないと思える心の豊かさに気づけることが本来の自分の魂を磨いていくことかもしれません。

透き通る霊泉に心身を映し、禊をしていくことで洗練させていくことで魂も浄化できます。
時には目を閉じて、心の眼を開いていけば見落としたことにも気づけるからです。

繰り返し繰り返し、開き続けていく中でふとした時に新たな気づきと発見に感動します。
また出会いの不思議さを新たに感じた一日になりました。

次第に明らかになる縁が導く妙なる問答に感謝しています。

以前、オランダでイエナプランの研修大会に参加した際のテーマが「鏡」というものがありました。ここでは自分の状態を映し出す鏡として自己観察をしようというものでした。

もともと鏡の法則というものもあります。この「鏡の法則」とは、「私たちの人生の現実は、私たちの心の中を映し出す鏡であるという法則で「自分の人生に起こる問題の原因は、すべて自分自身の中にある」という考え方のことです。

つい人は相手を相手と思ってしまいますが、自分の中にも同じものがあることに気づきます。人間関係で大変なのは、自分と相手が別だと思っているところからはじまります。本来は、自分に起こる苦しみは、自分の中にあるもので相手の問題ではないということです。

これはご縁という考え方が基点になれば理解できるように思います。

人はなぜ人と出会い学ぶのかは、自分でも気づけない自分の本当の問題を映し出し、それを学び心を磨くためのようにも思います。色々なつながり方もありますが、自分の信じる道を歩み真心を尽くしていけばそれが短い時間では理解されなくても人生のどこかの終着点では伝わるもののように思います。

人は我があるからこそ、悩み苦しみ惑いますが、我があるからこそ自分の心身を磨けるともいえます。試金石にしていくには、試練を丸ごと受け容れそれを善きものへと福へと転じる工夫が必要のように思います。未熟もの同士だからこそ、敢えて問題を共有し学びあっていくのもまた深いご縁のように思います。また永く続くご縁も、離れても強い絆が結ばれているご縁もまた素晴らしいものだと思います。

人生というものはご縁というものをどれだけ大切にするかに懸かっているようにも思うのです。

毎日、有難いことにたくさんの方々との出会い、そして事物との出会い、自分との出会いがあります。丹誠を籠めて生きるにはまだまだ凡人には程遠い日々ですが、全てのことが鏡になるよう曇りを拭い去ってありのままに観えるように自分を行じていきたいと思います。

一期一会にかんながらの道に照らしていきたいと思います。