自分との邂逅~一期一会~

人は自分のことを理解することが一番難しいことだと思います。

知らずしらずのうちに自分は間違っていないと思い込んでいるうちに、それが正しいと周りを必死に説得しているような日々を送ってしまうものです。

本来の自分がどういうものなのか、今の自分がどのようなものなのか、そういうものが自己観照できるには素直な心が育っていなければ難しいものだと思います。

この世の中は、自分の見方、心次第でいくらでも観え方が変わっていくからです。

同じ世界でも、自分の観え方ががらりと変わるには歪んだ自分の思い込みといったメガネをはずさなければなりません。しかしそれは相手を思いやる心や真心でいる場所ではじめて訪れるように思います。

この真心というものに我が混じらないほどに相手を思いやる実践の最中にだけ、自分の心が観えてくるように思うからです。人は自分を映す鏡として出会いとご縁があるというのもそれが真実だからです。

一期一会に人とご縁をいただき、そのご縁の中で人を愛し人を敬い学び合うのは自分の心を磨き大切な真理を学び直すためだともいえます。

治そうとばかりしていると分からなくなるものですが、自分に矢印を向け切って直そうとすると教えに感動し涙することばかりです。

日々を実践の場として、出会いを味わい尽くしていきたいと思います。

創意工夫と改善

創意工夫と改善というものがある。

人類は、もともと道具を使って生き延びてきたともいいます。それは道具そのものを使ったから生き残ったのではなく創意工夫したからではないかと思うのです。

自然を観察していたら、それぞれの生きものは小さな創意工夫を怠ることがありません。そして変化を自分のものにして、新しい環境に合わせて適応しています。

環境に適応するというのは、言い換えれば創意工夫を怠らないということ。それを他の角度から捉えれば、改善を行い向上しているということであろうと思います。

そうして日々に時代に適応していくから今も私たちが存在しているように思います。

私たち人間が生き延びて来られた大事な欠かせない能力がこの創意工夫と改善というものです。しかしそれもよかれと思ったものがよくないことに左右することもあります。それは今のように短期的な目線で目先の改善ばかりを行えば、それは本質的には改善ではなく改悪になってしまうこともあるように思うのです。

自分のためだけの改善、今の自分にとっての創意工夫というものは、ほとんどが自分本位の改悪になってしまいます。しかしそれがもし次世代や長い目線で遠い先の未来に今を譲るためにと改善をするのならそれは本来の意義の改善となります。

時間をかけるのは、時間を懸ける価値があるものに創意工夫と改善をしていくからです。

だからこそ小さな改善、つまりは小さな創意工夫になっていくのです。

創意工夫も改善も、それは自分のために行うのではなく周囲や未来へ譲っていくものたちのために今の私たちが行う責任ということになるのです。

今の時代を生きる私たちが目先の暴利を貪るのではなく、先々のために少しでも責任を果たせるよう信念を持って生き方や働き方の見直しからはじめ、創意工夫と改善を続けていきたいと思います。

 

自信に帰る

人は自分の生き方がどうかなどということはなかなか気づけないものです。

どれだけの本を読んでも、どれだけの人の話を聴いたとしても、まずその本人が生き方が理解できるほどに素直になれなければ自分の本来の間違いに気づけることはありません。

素直になれない理由は、自分に矢印が向け切れないことによることがほとんどです。自分が正しい、いや、言い換えれば自分だけが正しいと思い込むところから人は様々な屈折した性質を抱いてしまうように思うのです。

全ての人が正しいと思えるには、自分の素直さに磨きを懸けなければなりません。そしてそれは自分というものにどれだけ真っ直ぐに向き合えるか、そして自分自身を改革するということができるかによるものだと私は思います。

思い込みというのは、心底自分が原因であると矢印が自分に向き切るまでなくならないように思います。何度も何度も自分が正しいと無理を通せば通すほどに、それが間違いを生んでいくという矛盾を繰り返していくのもこの思い込みだからです。

思い込みと刷り込みというものも同じですが、誰かが教えた正しいをそのままに信じてしまうことほど恐ろしいものはありません。自分で気づき、自分で明らかになった信を貫くということが今の世は大変難しくなってきているとも言えるのです。

だからこそ何度も絶えず慎独し続けなければ道は為らないとも思えます。
そうやって自信を実践していくことで道の中にいることのように思います。

日々の仕事の御蔭で、自らの至らなさを痛感することばかりです。TODOに目を奪われていることに気づき、TOBEに心を配り、実践と精進をしていきたいと思います。

そして学んだことを真摯に活かして、使命への自信に帰っていきたいと思います。

人生の航海

人生の出来事や物事には、必ず意味が存在します。

人生には無駄がないというのも、その意味そのものに価値があるからのように思います。

例えば、何かの拍子に病気になったり、何かのキッカケで人間関係が乱れたり、災害に遭遇したりと何かの出来事が発生します。その時、心に余裕や遊びがあればそれが悪いことが起きているとは思えずに意味があるものだと実感できます。

しかし人は、そうは簡単には心は強くなくすぐに視野が狭くなって余裕を失っていくことで焦りや不安というものに流されてしまうものです。そういう時は、なかなか実践は難しいことですが敢えてそれを楽しもうや、勇気を出してそれを味わおうと決めてしまうことで少しずつその意味を感じることができるように思います。

ひとたび、目標というものを定めれば大変苦しい道のりが待っているのは間違いありません。それは心が現実の自分の甘さに打ち克たなければならないからです。しかし、そこまでしてまでというのが大切なことのように思うのです。

心というものは、目には見えないものを捉えそこに向かって成熟していくことのように思います。それは心の余裕というもの、つまりは心が常に安んじるところを求めて育っていくように思うからです。

なぜそれが必用かと言えば、それが人生の意味に直結している問いそのものであるからのように思うのです。人生を通して人は学び、そして人生を通して人は豊かに幸せになっていきます。

様々な道のりを経ていく中で、助け合い、信じ合い、繋がり合い、導き合い、許し合い、認め合い、譲り合い、応え合い、学び合い、育ち合い、見守り合うこと。

その一つ一つこそが、大切な自分の人生の航海そのものであろうと思うのです。
ご縁を大切にしていくことで、その実感を深くしていきたいと思います。

感謝。

天地自然の育成

昨日、永い間ずっとご縁をいただき共にお仕事をさせていただいているお客様とお話をする時間がありました。

共に永く続く関係はさびないとはよくいったもので、御互いに目には見えないものを観て、心を通じ合わせていくことで大切な目標に向かって確認を続けています。

御互いにできることとできないことを分かち合い、役割を味わうことは貢献ということの素晴らしさを自覚することに似ています。

貢献というのは、天地自然の道理にもっとも適うものでお役に立ちたいと願う気持ちが互いの個性や能力を引き出していくように思います。

不思議と共に生長をし合っていくということは、御役に立ちたい一心で取り組んでいくときにこそ芽生え成長していくように思います。

今の時代は、目標を探して迷い、選択肢が多い割には決めないというように彷徨うことが多いように思います。しかし、よく周りを確認してみたら不安を感じる事よりも一生懸命に自分を役立てていこうと願い行動し、結果は周囲に任せていこうとすることが自然のように思います。

自然は貢献することで実感できます。

自分本位で生きていると、自然が急に遠ざかってしまうことがあります。そういう時は、自然に沿った行き方を選んでいないときに急に視野が狭まり、本来の自然体の自分から遠ざかってしまうように思います。

貢献というのも、共生というものも、その根本は天地自然の育成によるものです。
自分を育ててくださる方々と共に、より一層の貢献を誓って行動していきたいと思います。

実践場数

今の教育の最大の刷り込みに、理屈で理解するというものがある。

学校で知識ばかりを優先させられ、それを積み上げていくことの努力しかしていないと次第に感情や体験から理解するということよりも頭の理屈で理解しようとしていしまうものです。

そもそも体験というものは、目標に対して長い時間をかけてコツを掴んでモノにしていくものでそこでは苦しい体験、悲しい体験、嬉しい体験、そのものを感情のままに理解するときにはじめて得るもののように思います。

理屈で理解している人はよく、「正論です」と言い返してきます。これは正論というものが、実践と同じ意味で刷り込まれた理屈側の人達の世界では通っているからです。

正論が分かっても役には立たず、正論かどうかよりも大切なものが現場の実践です。

実践とは、自分の脚で道を践むことをいい誰かの知識で乗り切ることではありません。今の学校は、先生も実践をせずに知識を教え、何も実習していないのに修めたとかいって自分でも修めていないものを平気で評価したりします。

制度の縛りや時間がないのは分かりますが、本来は学ぶというのは本人が時間をかけて体験からコツを学び、それがどういうことかと自ら理を修めることをいうように思います。それを大前提に理解していれば、理屈や理論は、単なる理想論であり現実からは程遠く、そんなものが役に立たないということを教え、本来の実践の中で培うことが指導だと教えることであるように思います。社会に出た学生がすぐに社会人として貢献できなくなるのも、この学校で得た刷り込みが取り除けないからのように思います。

いくら上手い泳ぎ方を黒板で書いて理解させてみても、実際に泳がないのでは上手くはならない。そしていくら美味しいカレーのレシピを伝えても、本当の美味しいカレーはできないのと同じです。

理屈で理解しないためには、理屈にならなくてもいいように即行動して感情のままに理解していく必要があります。それは頭で考えないともいい、体全体で現場実践の中で身に着けていくことをいいます。

現場で通用しない理屈を頼りにすればすぐに自信を失い、身動きできなくなっていきます。それを今まで受けてきた教育の刷り込みであると気づいたならば何を変えるかは明白です。

現場主義というのは、理屈で考えないことを言います。

それは常に現場でコツを掴むまで何度も何度も挑戦し、コツを掴んだ体得者を見習い、そこから学び掴み取るように自らを修めるといった学校とは異なった学び方を行うことです。子どもが大人の真似をしながら自分でやってみるように、様々なことは質の高い場数を通して体得していくことがいいように思います。

最後に、王陽明の言葉です。

「意思は行動の始めである。だから心に悪が生じれば、正さなければならない。まだ行動を起こしていないからと悪を正さないのは間違いだ。それは思うことは、行うことの始まりであるからである。心を正し、心の悪を退治しなければならない。 」

心即理、致良知、故に実践が何よりも正しいのです。

それに知行合一、つまりは知ることは行うことと一つであり分かれない。そしてそれは心の想いと行動とは同じであるから絶えず心身を正す、これが真の実践。

理屈抜きで実践していくことが現場主義なのです。もっともシンプルな方法は、常に現場での実践の場数によって得られるというのが私の人生の学び方です。

 

貢献度

御役に立つということが何かということを深める機会がありました。

人は誰かのためにお役に立つと決めていても、その程度というものが異なるように思います。

例えば、自分がこの程度やればお役に立つだろうと考えているレベルか、もしくは世間で評価される程度のレベルか、さらには夢の実現のためのレベルかでその程度が異なります。

貢献度というものは、どの程度までやれば貢献なのかを自らが自覚することではじめて自他の御役に立てたという実感ももてるように思うのです。周りは、このくらいやったのだからと慰めたり労わったりしますが、当の本人がどの程度までやろうかでその定義も変わってくるのです。

つまりは程度とは、自分が引いている自律のラインで貢献度が決まるとも言えるのです。
何のためにやるのか、どこまでやるのか、そしてどの高みで諦めずに挑むのかで決まります。

そして理想や夢、丸ごとの責任をどこまで自分が背負うかでその貢献度も変わってきます。

例えば世界平和を願っていても、ガンジーやマザーテレサのようにどの程度まで自分の願いを実践に移すかはその人の「想いの強さ」によるように思うからです。同じ人だとしても、異なるのは程度の差であるということなのです。

御役に立ちたいと思う心に、自分の持てるものをまだまだ使わしめてくださいと真摯に祈り誓い歩むことに頂上はないのかもしれません。心の広さも深さも無限で、まず想うことから願うことから、祈ることか誓うことから決心するという過程を得るのかもしれません。

自らの定めた理想や夢の程度に従い、貢献というもの、御役に立ちたいと思うことを深めて学びとっていきたいと思います。せっかく一度しかない人生、自分として生まれてきたのだから、ご縁を確かめ、使命を味わい、どの程度まで貢献するかはその人次第であろうと思います。

いのちというものの理解を深めていきたいと思います。

仲間と夢

今の時代は、表面上の付き合いを重んじるばかりに本当の仲間というものを求めようとしないように思います。

または自分のことを優先してしまい、夢を小さくしてしまい自分一人ではできないようなことを誰かと取り組むということを避けてしまう傾向があるように思います。

一人でできそうなことを夢にしても、一人ではできないことばかりだから他人の力を頼らなければなりません。しかしその時、信じていたものが失ったり傷ついたりしてどうしても先に諦めてしまうということがあるように思います。

そうやって何度も信頼と裏切りを体験しながら、本当の絆を深めていくのもまた仲間であろうと思います。言い換えれば、仲間になっていくということであるようにも思うのです。苦しい体験や艱難辛苦を共にしていくことで、耐え忍び、心を通じ合わせていくのです。

そうやってひとつひとつを乗り越えながら絆は深まっていくというような感じなのです。

無難に互いの夢を聴かないで表面上だけを意識して関係をつくることで、そういうものを避けたいと思うようになったのだと思います。しかし、人生の中で真の仲間や心の友と出会えるのは互いに夢を共有しその夢から逃げずに関係を乗り越えて互いに諦めないことのようにも思うのです。

夢は別に同じものである必要はないのですが、夢は同じくらい強いものでなければなりません。その夢に向かって共にする時間で、どこまで互いの夢に近づけられたか、そこに仲間の意義があるようにも思うのです。

当然仲間との旅は、最期まで共にできるかどうかはわかりません。論語の「与に共に学ぶべし、未だ与に道を適くべからず。与に道を適くべし、未だ与に立つべからず。与に立つべし、未だ与に権るべからず」とあるように、共にできるといってもどこまで共にするかはその人の覚悟にもよるものだからです。

夢を諦めないということは、仲間を諦めないということであろうと思います。

いつの日か、その夢に到達するときその夢の仲間にも到達しているように思います。
自分のことよりも夢を共有するから仲間はできるように思います。

今の時代は仕事が夢になっているかどうかは大切なモノサシではないかと思います。
その仕事に夢を語れてこそ、仲間の存在を実感することのように思います。

人生は唯一無二なのだから、数々の仲間との思い出を創っていきたいと思います。
夢に向かって信を厚くしていきたいと思います。

今日の改善

改善について、深めています。

そもそも今年は、我を省くをテーマにしているのですから己に克つことや事象から逃げないで正対することばかりが起きてきます。如何に、誠実にと思っていても実践していなければそれは誠には程遠く、常に自分よりも大事や志、大義を優先していけるかどうかは日々の改革と挑戦によるものです。

これを改善というと私は思います。

日々に中庸であれば、日々に中をとるのであれば様々なことは天理の則り自然に善転し続けていくように思います。しかし実際は、自我欲に任せてしまい周囲に流されるからなかなか中庸を維持していくのが難しいのです。

四書の「中庸」にこうあります。

「仲尼曰く、君子は中庸をす。小人は中庸に反す。君子の中庸は、君子にして時に中す。小人の中庸は、小人にして忌憚なきなり。」

意訳すれば、(孔子は仰った、君子は常に中庸を実践している。そうではない人はいつも外れている。君子の中庸は常に自己改善改革を怠らない。そうではない人がいう中庸は、自分自身はなにもしようともしない。)というように感じています。

これはしかしとても難しいことで、自分があるからできないことで、もしも私心がなければ常に自分に克つことができつづけているということになりはじめて中庸になっているということだからです。

そしてこう続きます。

「子曰く、人皆予知ありと曰う。駆って諸を罟擭陷阱の中に納れて、これを辟くることを知る莫きなり。人皆予知ありという。中庸を択んで期月も守ること能わざるなり」

これも意訳ですが、(人は智慧があると自分では言うけれど実際にもしも智慧者であるならば様々なことを常に未然に防ぎいつも善転し続けることができる。しかし実際は日々の私心に呑まれて中庸で在り続けることができずに智慧を働かせずにいるではないか。智慧でいるのは片時も中庸から外れないことをいうのです。)と私は思います。

智慧を持つということは、中庸でいるということ、中庸でいるというのは私心なく誠を尽くし続けている存在でいるということ、そしてそれは天人合一しているということであろうと思います。

つまり改善とは智慧のことであると覚知するのです。

私もそうですが実際は思っているのと現実は大きく異なり、実践し続けていくことで改善を取り組むしかない日々にいきているように思います。一生かけて学ぶ言葉に、仁、義、恕、真心、思いやり、見守る、信、そして中庸、智慧など、たくさんありますが実践を通じて少しでも学問を高めていければと思います。

今日できる実践を今日学び、今日を改善するために、今日を生き切っていきたいと思います。

心配すること

心配するという言葉があります。

よく心配しすぎとか、先々のことやありもしないことを不安に思うことで杞憂だと言われるようなあまりよくないときにこの心配という言葉が使われているように思います。

しかし本来の心配とは何かというのを深めてみます。

この心配というものは、心配そのものが善いとか悪いとか意味があるとかではなくその心を何に使うのかということに本来の価値があるように思います。読んで字の如く、「心+配る」というのは自分の心をどれだけ何に配り続けるのかということを意味するからです。どれだけの時間とどれだけの質量でその心を使うのかが大事だということであろうと思います。

例えば、ある人は自分のことばかりを考えて心を配る人もいます。またある人は自分以外の人達や世界中の困っている人たちの救済のために心を配る人もいます。またある人は表面上だけ心配する人もいれば、相手がまるで自分のことのように深く心配する人もいます。これは同じ心配でも、何をどこまで心配しているのかということが大切だということです。

そして一日24時間、一年365日、一生、何十年あるとして、その心を、何にどれだけその人が費やしたかということでその人生は大きく変わっていくのです。この心というものは、日々の日課と同じで使えば使うほどに成長して真の実力は具わっていきます。

その心を単に自分のためにつかっていたら、そのうち杞憂というレベルまで到達し毎日自分のことで一杯一杯で不安になってしまうのも無理はありません。しかし本来、心は無限の広さと大きさを含有するものですからどれだけ偉大に考えていても心はそれに応じて成長していくものなのです。カタチがないものだからこそ、無限の広さを持つのです。

その心の広さや深さが現実の世界を創るというのは、その心配にどれだけ費やしたかということとイコールではないかと私は思うのです。守りたいものが大きくなればなるほどに、私は心も大きくしていくことが必要だと思うのです。自分の心のサイズは変えないままに、増えていく大切な守りたいものを守ることができないと感じるからです。

そして真心というものは、自分を先にするのではなく私心や自我を拭い去り相手のためや人々のためにと思う時に顕われてくるものです。同じ心という字を使っていても、我心というものと真心とは異なっているものです。

心配するということは、何を心配するのか、もっと何に心を使うのかということを言っていて自分のためにばかりに時間も場所も会社も仕事も使うのではなく、もっとそれ以上に困っている人たちやお客様、そして自分を守ってくださっている御恩の在る方々のために自分の心を配ろうとしていくことではじめて心通じ合う世界で豊かに生きていけることができるように思います。

今の時代は、心をどこに配るのかまで気を配る人は少なくなっているように思います。ちょうど心配を深めていたら船井幸雄氏の言葉にも出会いました、ここにはこうあります。

「人の心がわかる心の大きさ。人を悲しませない心のやさしさ。そして、何事にも前向きに取り組む心もち。あなたは、意識していますか?当然のことができていないこともありますね。目にみえるものを磨くように、思いも磨いてみましょう。」

日々に理念を思いことや、日々に自分の信念に立ち返ること、そして日々に自分の原点を確認すること、思いそのものが人生を創っていきます。人が生きるというのは、本来は心配することですからもっと大切なことのために真心の実践を通じて心を育てていくことが本業なのかもしれません。

心の配る先にあるものを見据えて、思いを磨き続けて精進していきたいと思います。