学問と自責

色々なことが身近に起きるたびに、そのことに強い意志で取り組むにはその起きる出来事に真正面から向き合って取り組んでいこうとする意欲が要ります。

そしてこの意欲は、全てを学びにしていこうとするような自助努力があってこそ実現するように思います。

例えば、何かの出来事が発生することを自責の人になるか、他責の人になるかで受身か主体かということも変わってきます。自分次第だと思っている人は、全ての出来事を自分の責任として丸ごと抱えて逃げずに取り組んでいくことができるからです。

しかしそれが相手次第であったり、何か次第、あれこれ次第であるならばいつまでも自分自身が問題から逃げてしまうことになってしまいます。本当は自分が学びたいと魂から感じたことを自分が最初に否定してしまうのならそれは迷いとなって苦しみのみになってしまいます。

本来は、自分がそうしたいからそうなった。だからこそ、自分から進んで困難や艱難を引き受けようと、そして少しでも世のため他人のために背負おうと決めてしまえば、後は道をどう楽しむかということに専念していくことのように思います。

どうしても人はあまりにも背負いすぎるともう背負ったものを手放したくなってしまいます。しかし、ふり返ってみると過去のたくさんの出逢いを無駄にしない、今まで教えて下さった方々のためにも御恩に報いて本懐を遂げたいとも同時に思うのです。

だからこそ、私たちは常に人生という道場で学びを深めていく必要があるように思います。

二宮尊徳にこうあります。

「人、生まれて学ばざれば、生まれざると同じ。 学んで道を知らざれば、学ばざると同じ。 知って行うことを能はざれば、知らざると同じ。 故に、人たるもの、必ず学ばざるべからず。 学をなすもの、必ず道を知らざるべからず。 道を知るもの、必ず行はざわるべからず。」

自分が真心から真理を学べば、それを実行に移して実践していくこと。

それが学問するということでしょう。
学びに換えれば、全ては楽しい日々に美化されていきます。

学問するのも自分次第、自責の人生を味わっていきたいと思います。