心配するという言葉があります。
よく心配しすぎとか、先々のことやありもしないことを不安に思うことで杞憂だと言われるようなあまりよくないときにこの心配という言葉が使われているように思います。
しかし本来の心配とは何かというのを深めてみます。
この心配というものは、心配そのものが善いとか悪いとか意味があるとかではなくその心を何に使うのかということに本来の価値があるように思います。読んで字の如く、「心+配る」というのは自分の心をどれだけ何に配り続けるのかということを意味するからです。どれだけの時間とどれだけの質量でその心を使うのかが大事だということであろうと思います。
例えば、ある人は自分のことばかりを考えて心を配る人もいます。またある人は自分以外の人達や世界中の困っている人たちの救済のために心を配る人もいます。またある人は表面上だけ心配する人もいれば、相手がまるで自分のことのように深く心配する人もいます。これは同じ心配でも、何をどこまで心配しているのかということが大切だということです。
そして一日24時間、一年365日、一生、何十年あるとして、その心を、何にどれだけその人が費やしたかということでその人生は大きく変わっていくのです。この心というものは、日々の日課と同じで使えば使うほどに成長して真の実力は具わっていきます。
その心を単に自分のためにつかっていたら、そのうち杞憂というレベルまで到達し毎日自分のことで一杯一杯で不安になってしまうのも無理はありません。しかし本来、心は無限の広さと大きさを含有するものですからどれだけ偉大に考えていても心はそれに応じて成長していくものなのです。カタチがないものだからこそ、無限の広さを持つのです。
その心の広さや深さが現実の世界を創るというのは、その心配にどれだけ費やしたかということとイコールではないかと私は思うのです。守りたいものが大きくなればなるほどに、私は心も大きくしていくことが必要だと思うのです。自分の心のサイズは変えないままに、増えていく大切な守りたいものを守ることができないと感じるからです。
そして真心というものは、自分を先にするのではなく私心や自我を拭い去り相手のためや人々のためにと思う時に顕われてくるものです。同じ心という字を使っていても、我心というものと真心とは異なっているものです。
心配するということは、何を心配するのか、もっと何に心を使うのかということを言っていて自分のためにばかりに時間も場所も会社も仕事も使うのではなく、もっとそれ以上に困っている人たちやお客様、そして自分を守ってくださっている御恩の在る方々のために自分の心を配ろうとしていくことではじめて心通じ合う世界で豊かに生きていけることができるように思います。
今の時代は、心をどこに配るのかまで気を配る人は少なくなっているように思います。ちょうど心配を深めていたら船井幸雄氏の言葉にも出会いました、ここにはこうあります。
「人の心がわかる心の大きさ。人を悲しませない心のやさしさ。そして、何事にも前向きに取り組む心もち。あなたは、意識していますか?当然のことができていないこともありますね。目にみえるものを磨くように、思いも磨いてみましょう。」
日々に理念を思いことや、日々に自分の信念に立ち返ること、そして日々に自分の原点を確認すること、思いそのものが人生を創っていきます。人が生きるというのは、本来は心配することですからもっと大切なことのために真心の実践を通じて心を育てていくことが本業なのかもしれません。
心の配る先にあるものを見据えて、思いを磨き続けて精進していきたいと思います。