改善について、深めています。
そもそも今年は、我を省くをテーマにしているのですから己に克つことや事象から逃げないで正対することばかりが起きてきます。如何に、誠実にと思っていても実践していなければそれは誠には程遠く、常に自分よりも大事や志、大義を優先していけるかどうかは日々の改革と挑戦によるものです。
これを改善というと私は思います。
日々に中庸であれば、日々に中をとるのであれば様々なことは天理の則り自然に善転し続けていくように思います。しかし実際は、自我欲に任せてしまい周囲に流されるからなかなか中庸を維持していくのが難しいのです。
四書の「中庸」にこうあります。
「仲尼曰く、君子は中庸をす。小人は中庸に反す。君子の中庸は、君子にして時に中す。小人の中庸は、小人にして忌憚なきなり。」
意訳すれば、(孔子は仰った、君子は常に中庸を実践している。そうではない人はいつも外れている。君子の中庸は常に自己改善改革を怠らない。そうではない人がいう中庸は、自分自身はなにもしようともしない。)というように感じています。
これはしかしとても難しいことで、自分があるからできないことで、もしも私心がなければ常に自分に克つことができつづけているということになりはじめて中庸になっているということだからです。
そしてこう続きます。
「子曰く、人皆予知ありと曰う。駆って諸を罟擭陷阱の中に納れて、これを辟くることを知る莫きなり。人皆予知ありという。中庸を択んで期月も守ること能わざるなり」
これも意訳ですが、(人は智慧があると自分では言うけれど実際にもしも智慧者であるならば様々なことを常に未然に防ぎいつも善転し続けることができる。しかし実際は日々の私心に呑まれて中庸で在り続けることができずに智慧を働かせずにいるではないか。智慧でいるのは片時も中庸から外れないことをいうのです。)と私は思います。
智慧を持つということは、中庸でいるということ、中庸でいるというのは私心なく誠を尽くし続けている存在でいるということ、そしてそれは天人合一しているということであろうと思います。
つまり改善とは智慧のことであると覚知するのです。
私もそうですが実際は思っているのと現実は大きく異なり、実践し続けていくことで改善を取り組むしかない日々にいきているように思います。一生かけて学ぶ言葉に、仁、義、恕、真心、思いやり、見守る、信、そして中庸、智慧など、たくさんありますが実践を通じて少しでも学問を高めていければと思います。
今日できる実践を今日学び、今日を改善するために、今日を生き切っていきたいと思います。