今の教育の最大の刷り込みに、理屈で理解するというものがある。
学校で知識ばかりを優先させられ、それを積み上げていくことの努力しかしていないと次第に感情や体験から理解するということよりも頭の理屈で理解しようとしていしまうものです。
そもそも体験というものは、目標に対して長い時間をかけてコツを掴んでモノにしていくものでそこでは苦しい体験、悲しい体験、嬉しい体験、そのものを感情のままに理解するときにはじめて得るもののように思います。
理屈で理解している人はよく、「正論です」と言い返してきます。これは正論というものが、実践と同じ意味で刷り込まれた理屈側の人達の世界では通っているからです。
正論が分かっても役には立たず、正論かどうかよりも大切なものが現場の実践です。
実践とは、自分の脚で道を践むことをいい誰かの知識で乗り切ることではありません。今の学校は、先生も実践をせずに知識を教え、何も実習していないのに修めたとかいって自分でも修めていないものを平気で評価したりします。
制度の縛りや時間がないのは分かりますが、本来は学ぶというのは本人が時間をかけて体験からコツを学び、それがどういうことかと自ら理を修めることをいうように思います。それを大前提に理解していれば、理屈や理論は、単なる理想論であり現実からは程遠く、そんなものが役に立たないということを教え、本来の実践の中で培うことが指導だと教えることであるように思います。社会に出た学生がすぐに社会人として貢献できなくなるのも、この学校で得た刷り込みが取り除けないからのように思います。
いくら上手い泳ぎ方を黒板で書いて理解させてみても、実際に泳がないのでは上手くはならない。そしていくら美味しいカレーのレシピを伝えても、本当の美味しいカレーはできないのと同じです。
理屈で理解しないためには、理屈にならなくてもいいように即行動して感情のままに理解していく必要があります。それは頭で考えないともいい、体全体で現場実践の中で身に着けていくことをいいます。
現場で通用しない理屈を頼りにすればすぐに自信を失い、身動きできなくなっていきます。それを今まで受けてきた教育の刷り込みであると気づいたならば何を変えるかは明白です。
現場主義というのは、理屈で考えないことを言います。
それは常に現場でコツを掴むまで何度も何度も挑戦し、コツを掴んだ体得者を見習い、そこから学び掴み取るように自らを修めるといった学校とは異なった学び方を行うことです。子どもが大人の真似をしながら自分でやってみるように、様々なことは質の高い場数を通して体得していくことがいいように思います。
最後に、王陽明の言葉です。
「意思は行動の始めである。だから心に悪が生じれば、正さなければならない。まだ行動を起こしていないからと悪を正さないのは間違いだ。それは思うことは、行うことの始まりであるからである。心を正し、心の悪を退治しなければならない。 」
心即理、致良知、故に実践が何よりも正しいのです。
それに知行合一、つまりは知ることは行うことと一つであり分かれない。そしてそれは心の想いと行動とは同じであるから絶えず心身を正す、これが真の実践。
理屈抜きで実践していくことが現場主義なのです。もっともシンプルな方法は、常に現場での実践の場数によって得られるというのが私の人生の学び方です。