道跡

昨日、京都農園の関係で福知山にある石原の大師山霊場を尋ねる機会がありました。

ちょうど時間があったので古文書を調べていると、戦国時代の頃には大きな聖地として栄え参拝者がたくさん訪れていたようです。今では高速道路ができて、区画整理され、目立たないところでひっそりとお地蔵様が安置されています。

先日の地元の神社もそうですが、かつては家々に伝承され大切にされてきたものも繫がりが薄れていく中で消失していきます。時代時代の激変の中で、今でも残り私たちに継承されているというのはかつてそれを守り続けて改革を怠らずに取り組んだ方々の真心が残っているからのように思うのです。

そういうものを感じようとひとたび思えば、今まで見えてこなかった人の繋がりや地域の文化、歴史、そして人々の生活や心を感じることができるように思います。

史跡を巡るのも、歴史を辿るのも、巡礼するのもすべてはかつてのご縁に触れて今の自分の有難さを実感するためかもしれません。

当たり前に生活している私たちですが、この当たり前ができるのは今までの時代を生きた人たちが精いっぱい自分たちの責任を果たしたからのように思います。今を生きる私たちは、自分の人生の責任をどれだけ持っているのでしょうか。

歴史も文化も、生活も習慣もすべては今の責任を果たして行く中で次世代に継承していくものかもしれません。破壊されても、消えかけていても、それを継ぐものがあればまた必ず復興し、道心は続いていくように思います。

昨日も消えかけた八十八箇所を感謝で廻りながら、そこに確かにかつての人々が踏み固めた道跡を確かめました。

時代時代に塵あまたが降り積もり消えかけようとする道に出逢えば、自らの埃被った手垢を洗い清めつつ跡を辿り、永劫のかんながらの道を践みしめていきたいと思います。