真実の満足度

先日、尊敬している千日回峰行を遂げられた大阿闍梨の塩沼亮潤の新著「執らわれない心」を拝読する機会があった。その他の著書もすべて大変素晴らしいものばかりで、生き方に共感することばかりです。

素直に正直に生きるということほど、誰にとっても難しいことはありません。しかしそれを修行だとして日々に直向に取り組む中で得た学びや気づきを同じように苦しむ人たちのために乗り越えてそれを伝えていこうとする真心。

こういうものはたとえ仕事がどの仕事であっても、場所や立場がどうであっても私たちの人生の魂や心を磨く大切な使命であろうとも思います。ご自分を磨きながら他も磨くことに私も人との間の幸せを噛み締めることばかりです。

今のような時代には、特にこのような方々の存在に私自身とても勇気を戴きます。さて、その著書の中はすべて素晴らしいのですが最後の方に印象に残る言葉がありました

「苦しさには強いが、ぬるま湯には弱い。これが人の心。」

とあります。

先日、幸せとは何かと考えている機会が多かったのですが人は不満がなくなればなくなるほどに不満を言い始めるように思います。そして満足が続けば続くほどに、自分が不幸であるように実感していくのです。

不思議なことですが、欲や感情が満たされればされるほどに心の方は貧しくなっていくかのようです。目標が高ければ人は不満を抱きます、その目標によってさらにその不満のエネルギーを他の何かに集中していくことができるように思います。例えば、理想が高ければそれが実現しない不満を探究心や道を行じる苦労をする方へと向けていけるからです。

しかし理想が低く、現状に満足してしまえばぬるま湯のようになり心は次第に弱っていき何もしないうちに時間だけを浪費してしまうように思うのです。茹で蛙の故事ではないですが、ぬるま湯に浸かっていて満足しているうちに下から沸騰してきても分からないうちに蛙が死んでしまうとありますが、あれは真実だとも思うのです。

今のように唯物的に社会を形成し、いつもお金や物で満たしていたら心はもう動かなくなってきます。心の不満とは、実は幸せを生み出す種でありそれがあってはじめて心が成長していく歓びもまた実感できるように思うからです。

目標を高くするということは、現状に満足しないということ。そしてそれは成長するということ、いつまでも自分を高め続けて今を充実させていくために挑戦と改革を続けていくということに他なりません。もともと私たちの心は、苦しいことと楽しいことに働き、便利と楽には働けないのかもしれません。

自分を役立てていくということは、進んで自ら苦しみの中に入りその中での成長を楽しんでいくことなのかもしれません。最後に、高杉晋作の言葉で締めくくります。

「艱難を共にすることは出来ても、富貴を共にすることは出来ない」

役立てるというのは、身を捨てるという覚悟なのかもしれません。目標というものを利他で立てようとするのは志に通じているように思えてなりません。志を立てるということは、身を捨てる覚悟のことかもしれません。

今のように富貴が溢れる時代は、敢えて不満のままやストイックさを忘れないでいることが流されない今を生き切るコツなのかもしれません。

自分自身も満たされ過ぎてはいないか、当たり前が間違っていないか、常に省みて真実の満足度とは何か、幸せを与える、役割を果たすとは何かをもう一度見直したいと思います。