発達の練習

世の中が今、何が起きていて何が問題なのかを論じる情報は沢山あります。

その一つ一つを拝見していると、あらゆる方法論が存在しどこから手を付けていいか分からないほどです。それは病気の治し方から食生活の治し方、お金に関すること、教育や育児など様々な分野で存在しています。

しかしそれを実践していこうとすると、一つ一つを掘り下げて自分で確信を得るところまで学びこまなければそれを使いこなすことはできません。

そう考えてみると、何を実践するのかを決めることは何のために行うのかということを定めるということだろうと思います。

人は本気になれなけれれば、何かを修得することができないように思います。どの仕事もどの分野も、自分がこうなりたいやああなりたいと思ったら、何のために遣るのかを決めてから事物に取り組み実践を積んでモノにしていくように思えるからです。

例えば、笑顔の練習も、喋り方の練習も、態度の練習も、それは何かを実現するために積むのです。練習を積んでいくというのは、将来への練習で発達と同じく、どの方向性に合わせて練習していくかでその人なりの目的を果たしていくのであろうと思います。

自分なりのやり方と自分なりの方法で、自分らしく発達していくのが人間のように思います。それがたとえ不可解な行為であっても、不真面目に観えたとしても、実はその人に最も相応しい方法であるから不思議なものです。

発達を信じるということは、その人なりの学び方があり、その人が掴んだ方法を違う形で真似をし掴む人たちがいるということなのでしょう。それぞれの個性が実践を通じて磨かれることを知ると、実践を増やしていくことがより発達を促していくように思います。

役に立つのは実践の種類だけではなく、実践している姿そのものかもしれません。まずは自らの周辺を、実践で感化していきたいと思います。

本当の当たり前

人は教育により、考えない時に教え込まれたものが刷り込みになって生涯残ります。

もちろん幼少期より、考えずにそういうものだと教え込まれたものは人間は一切考えようとしなくなります。これは当たり前だと教え込んでおけば、当たり前のことには気づかなくなるのが生きもののように思います。

それをいちいち深めて掘り下げていけば、本当は何かに気づけるのですがそのためには物事の本質を観続けるような考える実践が必要になるのです。

そういっても考えるといっても、その基点が刷り込まれた場所で考えていたらどうしても本当の問いができなくなってきます。本当の問いは、刷り込みのないところで考えていく必要があるからです。

それには一度、自分から進んでバカになる必要があるようにも思うのです。

知識を蓄え、経験を積み、本当にそれで頭が良くなったのかと疑問に思う所から考えてみると意外と実際は思い込みでバカになったのではないかとも思われるのです。なぜなら、分かるはずのものが分からなくなり、当たり前のことが当たり前に考えることができなくなったからです。

この思い込みの罠に引っかかり、どうしても人の話が聴けなくなったことが本当のバカになったということではないかと思います。そうならないように、自分から本当にバカなのは自分だと、周囲や今までの思い込みに持っていかれないように自分から気づき考え続ける習慣がこれからは必要だと思います。

そういう私も、生活の刷り込み、会社の刷り込み、社会の刷り込み、国家の刷り込み、当たり前と思ったものを疑わずに苦しんでいることも沢山あります。何が子どもたちのためになるのかを考え抜いて、それをカタチにしていきたいと思います。

当たり前だと思い込んでいるものは本当に当たり前なのだろうか。

この問いに、挑んで子どもたちの幸せを考え抜いていきたいと思います。

 

時代の希望を託す

昔から連綿と続いてきた生活をしている人々があります。

その地域に合あわせて適応してきた人々です。数百年の前から、創意工夫をし少しずつ変化を続けたきた智慧がたくさん生きています。ただ、今の時代は急速にそういう智慧を使うよりも機械化した目先の便利な方法が優先され人間のやりやすい方法で強引に進めているところも多いようです。

農業も漁業も、さらには商業もすべては人間とって都合の悪いものはすべて排除しようといったように考えられ大地も海も人間の関わりも変化してきたものです。

よく観察してみると、国家事業として公共事業に多額の投資を続け、政治があらゆる場所の隅々まで網羅しその影響力で今のように人間都合を優先した世界と社会が浸透していったように思います。

時代の流れは変えられず、人口の増加とともにこうなることは歴史の必然かもしれませんが価値観が一変するようなことが起こらない限りこの方向はなかなか変えることもできないようにも思います。

その価値観とは、自然か人間かではなく、この時代の中で丸ごと本質でいることであるように思います。それは自然と同時に人間であること、人間としての豊かさと自然の豊かさを共存共栄できる人物、あらゆるものの清濁を併せ持てる本質的な人物ことが新しい価値観を生み出すと思うからです。

そのためには、人間の中にあって本質で居られること、自然の中にあって本質で居られること、これを融合させる本物が持つ価値観が世の中を刷新していき新しい時代を創造するだろうと私は信じています。自分が自分の時代を遣り切っていけば必ず将来の子どもたちの中から新しい価値観で世界を守るような人物が出てくるはずです。

希望をもって自分の今の旅を深めていきたいと思います。

自然に合わせる

先日、自律を調整していることはどこに合わせているのかを考えてみました。

生きていれば、呼吸をはじめ心臓の鼓動、起きている寝ているなど、数々のことを無意識に調整しているともいえます。例えば、走れば呼吸が早くなり休憩したら落ち着いてくる。病気になれば、熱が出て次第に回復にあわせて落ち着いてくるなどもそうです。他にも、四季の寒暖にあわせてすべてを調整していますし、居場所によって調整しています。

では、それらは一体どこに合わせているのかということになるのです。

それは、自然というものですが、感覚から先に言えばつまりは巨大で雄大、悠久なものに合わせているように思います。シンプルに言えば、私たちが存在している場所に合わせているともいえます。

存在している場所というのは、それが自然と定義したものでありそこにあわせてバランスを整えているのです。だから自分の調律や調整がうまくいかないときは、自分がいつも落ち着ける場所やバランスを掴みやすい場所に移動したりして本来の自然に合わせていくことのように思います。

私たちは常に、宙ぶらりの中で存在することで安定していて知らずしらずに一瞬も休まずに動き続けてバランスを保ちながら生活しているというものです。自分の方に合わせようと思ったり、自分の都合で合わせていこうとしてもそれでは無理が生じていきます。

自分の中の自然に合わせるためには、自然で生きるものが実践しているものと同じものを自分の中に確乎たる土台や根がつくまで育てていかなければなりません。しかし本当に有難いことは、合わせるものを確かに持って生活することができるという安心感です。

昔から合わせてきたものの中には、太陽がありますし、月があります、空気があります。太陽に合わせて整えたり、月にあわせて整えたり、空気によって整えたりと、無意識ですが必ずすべての生きものは自然を中心に合わせていくことで絶対安心を得ているのです。

合わせられるものをたくさんもって、いつの日か心の中の太陽と生活していきたいと思います。

 

健気の香り

健気という言葉があります。辞書でひくと「年少者や力の弱い者が、困難や苦難などに立ち向かって、かいがいしく立派に振るまっており、それが立派でほめるべきさまであること」(小学館類語例解辞典より)などと書かれています。

健気というと、昔、山下清の「裸の大将放浪記」という番組で流れていたものを思い出します。野に咲く花のようにという歌の中で使われていました。

「野に咲く花のように風に吹かれて
野に咲く花のように人を爽やかにして
そんな風にぼく達も いきてゆけたらすばらしい
時には暗い人生も トンネルぬければ夏の海
そんな時こそ野の花の けなげな心を知るのです

野に咲く花のように雨にうたれて
野に咲く花のように人を和やかにして
そんな風にぼく達も 生きてゆけたらすばらしい
時にはつらい人生も 雨のちくもりで また晴れる
そんな時こそ野の花の けなげな心を知るのです ルルル・・」 (ダ・カーポ)

天気がどんなであっても日々がどんなであっても、自分らしく自分のままに生きていこうとする健気な姿が美しいという感じでしょうか。

それが報われようが報われまいが、自分の徳性を精一杯自分のままに出し切っていくという天真爛漫で無邪気な真摯な姿に共感するものが野の花にはあるのかもしれません。そしてその花を見て元気になっていく自分が同時にあるのかもしれません。

生き方というのは自然を通せば、正しく観えるように思います。人間はつい頭でっかちに考えてしまうので、色々と余計な疲れが出てしまうように思います。自分のままでいればいいと思ってみても、実際は人の目を気にしてしまい人間関係に疲れてしまいます。

そういう時には、自分のままでいることを大事にしていけばいいように思います。つまりは自分らしくいることを優先していくことのように思います。

何かを変えなければいけないと思い込めば、人は自分に合わないことを無理してつくるというのは自分ではなくなるということかもしれません。つくるということで相手もつくりますし、演じれば相手もまた演じるようになります。自然の中で自分のままでいてもいいと思えることほど安心するように思います。そう思えば、野に咲く花のように自然に生きていくことに学んでいくことのように思います。相手にも自分のままでいいのですと安心できるような優しく思いやりのある言葉や心を伝えられる自分でありたいと反省することばかりです。

今朝も、ベランダのガーデニングから爽やかな風とともに美しい花の健気が香ってきます。このままの自然、自分のままの幸せを味わっていきたいと思います。

謙虚な言葉

先日、宿泊した先で小学生のある作文を拝読する機会がりました。

プリントしたものでしたが、そのタイトルが「うちの家はみんな悪い」と書かれていたので、何だろうかと思い読み進めました。平坦な文章ですが、謙虚さについて考えさせられる素敵な内容でした。

「うちの家はみんなが悪い 」

きょう私が学校から帰ると、お母さんが「お兄ちゃんの机を拭いていて 金魚鉢を落として割ってしまった。 もっと気をつければよかったのに、お母さんが悪かった」と言いました。するとお兄ちゃんは「僕がはしっこに置いておいたから、僕が悪かった」って言いました。  でも私は思い出しました。きのうお兄ちゃんがはしっこに置いたとき私は「あぶないな」って思ったのに、それを言わなかったから、私が悪かった」と言いました。 夜、帰ってきてそれを聞いていたお父さんは「 いや、お父さんが金魚鉢を買うとき、丸いほうでなく四角いほうにすればよかったなあ。お父さんが悪かった」と言いました。

そしてみんながわらいました。

うちはいつもこうなんです。
うちはいつもみんなが悪いのです。

調べると、『本当の自分』(高木善之 著、『地球村』出版)ので紹介されているようです。

私たちはどうしても、自分を責めたり相手を責めたりして本当は自分の方が変わらなければならなかったということを避けようとします。本来は、自分が気づけば善かったことを自分は気づいていたけれど反省しないということが多いように思うのです。

自分の方が悪かったと思うのは、その事物や事象に対して反省できる謙虚さがあるからのように思います。そうやって、人々がみんな相手を変えるのではなく自分を変えようとしていけば作文のようにみんなでわらうことができるように思います。

相手が変わるまでは自分は変わらないと頑固に決め込んでいることもたくさんありますが、それが自我を助長し傲慢な生き方を拡大していくのかもしれません。作文の子どものように、大前提として感謝の心を根っこに持ち、素直に反省し、謙虚に謝ることができれば学びはより深く掘り下げていくことができるように思います。

当たり前のことすぎて忘れてしまいますが、「ごめんね、すみません、許してね、気をつけます」といった謙虚な言葉をもっと大切にしていきたいと思います。

 

攻める

人は自分が攻めているなという時と守りに入っているなという感覚を持つことがあります。

事物に対して積極的である時は、攻めているときであり、逆に消極的である時は守りに入っているとう感覚であろうと思います。

この積極というのは、中村天風の積極的精神について著書等で学んだことがあります。自分の境遇を嘆くよりも、自分から積極的に人生を切り開くことで明日を勝ち得ていくということを要諦にしていたように思います。

その積極思考の心得には、「自分の心を強く持つ」「周りの消極的なものに心を同化しない」「取り越し苦労は断じて行ってはいけない」「本心・良心で活きる」「明るく、ほがらかに、生き生きと活きる」などがあり、常に自らが消極的に流されないように攻めるというのは今の自分を生き切るということを言っているように思います。

つい人は、自分の思い通りに生かせようと我儘を通そうとします。

しかし実際は、自分の思い通りいくことだけが幸せであるとは限りません。願いが叶うこともいいのですが、願いが叶わなくても真摯に直向に取り組んでいる自分が幸せであったりという境地もまたあるように思うのです。

願いが正常に働くときは、自分を尽くし切っていると思える時だからです。自分ができることを怠っているときはそれは単なる欲の一つになってしまい叶い難くなるからです。

つまりは積極心は自分を遣り切った人たちだけが持てる境地でもあり、中途半端に自分が燻っているのでは出てこないように思います。与えられた能力を遣い切る、自分の持ち味を出し切るといった自分を常に積極的に活かして移行とする中に本来の攻めがあるように思うのです。

能力が高い人ほど、やれることが多い人ほど正直に自分を使い切るために小さなことでも真摯に直向に正対していく精進が必用のように思います。

自分が消極的になるところはどこか、そこに焦点を当ててそれを全身全霊で積極的に取り組むことが攻めているということになるのでしょう。攻撃は最大の防御という言葉も、その本質は常に積極的にいることが最大の防御になっていくという意味なのだろうと思います。

最後に中村天風氏の言葉で締めくくります。

「人生の一切合切を始終プラスの状態にあらしめる。これが理想的な人生を貫くためにいちばん必要なことなんです。ちょうど家を建てるときの土台と同じようなものなんであります」

土台をしっかり持つということは、信念を醸成し根底を常に善いことへと転じる努力を惜しまないということであろうと思います。揺らがないほどに今を遣り切っていきたいと思います。

 

 

共感謝

先日、共に生活をしている烏骨鶏のことである方と話をする機会がありました。

特に悪気があるわけではなく、「鶏は1年半くらい卵を産ませたら肉が固くならないうちに食肉へと加工し販売するというサイクルでやるといい、なので早めに殺処分して次の鶏を飼った方が良い」と勧められました。鶏を何のために飼うのかで話の本質も変わりますから、その考え方も一理あると思いながら拝聴していました。

ただその時は、私には生活の一部になっている烏骨鶏を簡単にはそうできないと返答した後、少しこれを深めて考えてみることにしてみました。

もともと私たちは何かを食べることで今まで生きながらえてきました。そこには常に犠牲は隣同士で、食べるという行為を通して分け合い助け合い共に生きていくのが自然です。今回の鶏でいえば、大切な卵を分けてくれてそれを食べることで子どもや病人などが栄養をつけて元気に生きていく滋養をつけます。

ニワトリというものは、人間にとってとても都合が良いから共にいることにしたのですがこちらの思い通りにしたわけではなくニワトリにも意思があって共にすることになっていると思うのです。長くは縄文時代の遺跡からも、鶏と共に暮らしてきた形跡が残っています。

私たちはニワトリを助け、そしてニワトリに援けられた御蔭で今も生活の中に欠かせない存在としてあるように思うのです。そうやって共にしてきた期間があるから、今の私たちと共に暮らしていくことを決めたように思います。

今の暮らしの中で人間とつながって生きてきた仲間たちは共感しているからといえます。そこにはただの物の一つや、食べ物というものではなく、その生き方や在り方、その何かしらの恩恵に感謝し共感するから一緒になっているということです。

人間と今まで共にしてきた生きものたちや道具たちというものは、私たちの慈愛に応えて様々なことを援助してくれています、それはミニマムでいえば身近な菌類、そこから植物や虫たち、鳥たち、犬や牛、数えきれないほど長い年月を共にしてきた仲間たちです。

そういう仲間たちが過去に大変な時、辛い時に御互いに犠牲にし合いながらも共に生き抜いてきたからこそ今があるのだからその御恩を忘れないでいることが共感です。

共感は今の自分だけで考えているのではなく、今までの自分で考えることのように思います。この共感には、今までの関わりやつながりといった絆が入っているのです。

この共感を忘れないというのは、有難いという日常を生きる事のように思います。何でも人間都合で用がなくなれば捨てるという発想は自然の営みからも大いに外れていくように思います。そんな自然から離反した生き方では幸せを実感できないのもまた自然の一部としての人間の宿命だと思います。

常に今までも本当に有難うといった共感謝を忘れないで生きていくことを、次世代へも紡いでいきたいと思います。

 

自他との対話

人は自分の人生を生きているつもりでも、気が付けば人に流されてしまっているということがあります。色々な人がそれぞれに信じているものがあり、それを正しいと思い込んでいるからこそ自分が自分で考えないで生きていけばすぐ他人の正しいに乗っかってしまうのです。

人間は、誰もその人本人に代わってあげることはできず、本人の人生は本人で全うしていくのが人間です。誰かに決めてもらったり、誰かに依っていては主体が自分ではなくなってしまうのです。

特に、自分が病気で弱っているときや、気持ちに不安があればすぐに他人の正しいに持っていかれそうになるのもまた人間だと思います。だからこそ、考え続ける習慣を持つことが必用で、何のためか、本質は何かと常に主体を自分で維持していくことが信念を醸成していくことのように思います。

人の話を聞かないとよくないからと、信念を持たずに聞くのは当てにしていることになり、人の話を聞けばいいと信念を持たずに聞けば流されていることになる。だからこそ、常に主人公は自分であると自分が正しいことは何か、本質は何かと常に維持することでバランスを整えることができるように思います。

幼い頃から、誰かの正解を刷り込まれ信じ込まされてきた私たちは正しいことは集団の理論であったり偉い人や権威がある人、または前例主義のように今まであったものが最も正しいものだと信じ込まされてきています。

しかし人生は答えはなく、常にその人の信じた生き方が答えであるからこそ、その答えを求めて自らが考え抜き自分の人生を真摯に考え抜き遣り切っていくしかないのです。答えのない人生だからこそ、この答えのない世界だからこそ「自他と対話」して歩んでいくことがもっとも正しいことに近づくことだと思います。

そうしていくことが信念を揺るぎないものにし、納得のいく満足した人生であったと実感するのです。人の幸せは、魂が望んだままに達成してあげるために運命を与えられ、心を磨き、ご縁を紡いで観妙を実感することにあるのかもしれません。

自他との対話は場所を問わず時間を問わず何処でも行えます。
一度しかない人生を謳歌していくためにも、正対していきたいと思います。

至善対話

人は一つの価値観が正しいと刷り込まれると、そうではない価値観が理解できなくなっていくものです。人の話を聴く訓練をしていないままに育ってしまえば、自分の思い込みや先入観だけで世界を理解しようとしてしまいます。

本来、人は様々な正しいことを持っていて一つだけの正しいことが正しいわけではありません。もちろん真理というものが一つであったとしても、それを求めて近づく方法論は一つであるはずがないからです。

それは人間がそうであるように、それぞれがそれぞれのやり方で人生を全うし体験を通じて気づいて学び、そして深める中で発達し真理を獲得していくからのように思います。

だからこそ答えは一つではなく無数に存在していると定義できるからです。次第に私たち人間が成熟してきたならばより一層真理に近づいていくように思います。当然、その間には欲望なども偏ってきますから世界は渾沌としているように感じます。

同時に一つに向かうのですから、世界の中にある沢山の正しいことを合わせて至善、至誠、至福といった最も融合した場所で調和を求めていく時代に入っていくであろうと思います。

そんなに遠くない将来、きっとそのような時代が来るであろうと私は予測しています。だからこそ子どもの頃から、対話を通して常に善悪調和の真の善を引き出していく訓練、体験を積み上げてそういうものが可能であることを自信しておく必要があるように思います。

子どもたちのもともと持っているものの中には、思いやりや真心がそのままに存在していてそれをあるがままに認めながら対話ができれば新しい世界を必ず創れると信じてあげることだと私は思います。

その信念が、今の教育者には必要ではないかと私は思うからです。

人を信じるということはとても尊いことだと思います。何度も何度も繰り返し行われる出来事を通して、じんかんの中にある至善を体得することもまた私たちの使命なのでしょう。一つでも多くのご縁から思いやりを引き出していけるよう自らが実践し精進していきたいと思います。