濁流の杭

心を使って何かに取り組むというのは、毎回、薄氷の上をおそるおそる歩くように似ています。

勇気があるというのは、実際は怖がりながらも一歩一歩また歩んでいくようなもので気にもせずにずんずん行く人というのは野蛮なだけだったりもします。勇気というのは、ないものを絞り出してでも前進しようとすることかもしれません。

ブレナイということも、四六時中刷り込まれないように自分を正し続けることであり少しでも油断すればそこから自分を正当化したりして独善的になったり、もしくは頓珍漢なことをいって周囲を惑わしてしまったりもするものです。

特に他人に影響を与える仕事をする人や、リーダーと称される立ち場の人がそのようによくブレテしまっていたらそれだけ多大な迷惑をかけてしまうこともあるように思うのです。

心配しても心配し尽くせないのがこの役割の人達で、常日頃、四六時中油断をしないように気持ちを切らないでいることでブレナイで決心したことを持続していく必要があるように思います。

ここでもブレルというのはどういうことかと言えば、決めたことが徹底できなくなることです。例えば自分の中で決心したことを、自分が流してしまい、そのものの本質を見失ってしまうことや、何のためにやっているのかという意味づけをなくしてしまう、またご縁のつながりの中で確かに掴んでいたものを手放してしまうことのようなものです。

だからこそ油断しないよう、常に自重し、日々に理念に立ち返り、日々に内省し、本質を貫くために道の実践を継続するという途絶える事のない自律自戒を遣り切る日々を歩む必要があるように思います。

この時代の私たちは何でも便利で新しい情報が日々に入っていき少しでも受け身になればすぐに流されそうになるような濁流の川の中にいる杭のようです。流されないようにしていくためにも、常にブレナイでいられるよう油断なく働き続けていきたいと思います。また仲間が助けてくれているからこそ、自分からブレナイ杭になるようより深く差し込んでいきたいと思います。

考え方の学び方

物事を好転していくときには、必ずそこに正しい考え方というものがあります。

例えば、「与えるものは与えられる」という考え方があるとします。これは自分をより多くの人達へ貢献していこうと思えば、自分がもったいないからと出し惜しみしてしまえば与える側ではなく奪う側になります。

自分の持っている技術や能力、その個性などもすべてまず与えよう、出し切ろうと思っていればそこに私情が入り込まず澄んだ心と感情で素直に貢献していくことができます。しかし実際は、そこには姿勢や態度といったまずは自分の考え方が変わっていなければできないことです。

いくら表面上、変えてみようとしてもその深層にある意識といった考え方を改善しようとしないとなかなか人は変化できないものだからです。

仕事で言えば、自分の体験を全てお客様に還元するという考え方がありますがこれは四六時中真心でお客様のことを自分のことのように考え抜いて遣り切っている集積があってはじめて自分の考え方が与える側になってくるように思います。

そうやって皆が与えよう、出し切ろうと思う気持ちを100パーセント実践に移すことができてはじめて与えるという考え方を自覚できるようになるのだと思います。

まずは何をすることが与える事なのかを実践することを決め、それを行った後に与え切ったかどうか、出し切ったかどうかと振り返ることの連続でその真心を育てていく訓練をしていく必要があるように思います。

この考え方というのは、なかなか口頭で教えることはできないように思います。だからこそまず徹底して与えるということにつながる実践、出し切るということになる行動、それを日々に取り組み、自分の可能性を自分を超えたところで広げ続けていくことで成長が促されるようにも思います。

人生には無駄がなく、自分の真心から取り組んでいることは全てに意味を含んでいきます。その意味のひとつひとつを誰かのために御役に立てようと心に決め行動すれば自然に与えるという考え方が沁みついてくるように思います。

自分がなぜ今の場所を与えられているのか、今の自分であるのかを感謝できることもまた与えられた歓びに感謝しそれをもっと社会に還元したいと実感する場所になるのかもしれません。

考え方を学ぶためにも、知らずしらずに奪う側にいないか、瞬間瞬間に出し惜しみせずに自分の出せる一番大切なのものをすべて出し切る日々の実践を常に省みて今を大切に過ごしていきたいと思います。

選択の集積

人にはそれぞれに運命というものがあるように思います。

それはその人がどのような道を辿るのか、その道がある程度決められているように思えるからです。どこで生まれてどこで育つのか、誰を両親としているか、その他、どんな性質を持っているかなどをよくよく洞察していたらやはり何らかの運命があるように思えます。

しかしその運命に対して、流されてしまえば運命に負けてしまうようになり自分の思い通り生きたとは思えないように思うのです。運命に負けないというのは、どんな運命を背負っているにせよその選択は自らが行ったということができるのなら人生を自分で切り開いている実感を持つことができるように思います。

人生を自分で切り開く実感というものは、運命に流されないで常に自らが決断して選択した連続であったという感覚と同じように思います。

たとえ今の自分が今のような状況や環境にあったにせよ、その選択は運命だったではなく自分で決めたことだと思えるかどうかにかかっているのです。

運命だからと何もしないでいたら、運命に流されてしまい人生はどこか消化不良で納得いかないものになってしまいます。どんなときも自分が決めたことだからと遣り切れば、その都度納得いくものになり人生の舵を切ったのは自分だという充実感もあるように思います。

どんな時代もそうですが、自らの境遇に嘆くのはどこか何かの刷り込みにあい流されてしまうからのように思います。その刷り込みを自らで取り除き、その刷り込みに負けないように実践を積み上げていくことで新しい可能性を切り開いていくことが人生の歓びでもあろうと思います。

常自問自答し、に自らの選択を優先していきたいと思います。

変化の定義

懐かしい場所に里帰りすると、色々と変わったものと変わらないものを発見します。

例えば、目に見えるところでは商業施設や娯楽施設が大通り沿いに乱立して看板をはじめネオンの光が燦々と照らされています。またその逆に、街灯もないような場所では真っ暗で昔のままに田んぼと自然の用水路がそのままです。

昔と変わったとか変わっていないとかいいますが、ここでは単に時間のスピードが速い場所と遅い場所があるということではないかと思います。

また同時に人間の方でも変わったとか変わっていないとかあります。

例えば、目に見えるところでは齢をとって老けていきますし子どもが生まれ家族が増えていきます。またその逆に、相変わらずの個性や人柄はそのままに人間性はそのままです。これも同じく、変わったとか変わっていないとかではなく、時間が過ぎ去ったかどうかということであろうと思います。

時が経つということが目に見える変化のことであり、その見た目の変化は時が経ってどのように見た目が変わったかということであろうと思います。

そうして今度は見た目では分からない変化というものもあります。それは成長ではないかと私は思います。人は、時間と共に自分の考え方かた生き方そのものも様々な事物から学び、人間として成長していくものだと思います。

つまり、時の流れをどのように過ごしたかが変化になるのです。例えば、苦楽もまた幸福として過ごした、耐え忍ぶことで乗り越えた、他人のために尽くして徳を積んだ、など、そういうものも目には見えないけれど確かに変わったと感じることがあります。

これは時のスピードではなく、成長の質量であろうと思います。

人が久しぶりに会う時、その人の成長を確かめるのかもしれません。そうして、人が人と会うことでその人格を確かめ切磋琢磨していくのも人の醍醐味であろうと思います。それぞれに幼い頃から知った仲だからこそ、それぞれの学びがどのようなものであったか、そこに花も咲くのかもしれません。

変化を楽しみながら前に進んでいきたいと想います。

美しい思い出~人生の眩~

昨日は、クルーの皆と一緒に遅いお花見を楽しむことができました。

都会にいても、少しだけ外に出れば緑に囲まれた素敵な公園があるのもまた都会の楽しみかもしれません。いつもとっておきの場所を用意してくださったり、素敵なシーンを演出してくださるのに天の恵みを感じる事ばかりです。

その場所はとても懐かしく、以前はお別れ会をしたところでもありました。別れを名残惜しみつつも自立していく仲間を見送り、新たな決意と共に出発した場所でもありました。そして今回は、新たな神家本家としてのスタートを切る場所ともなりました。場所というものの中に、色々な思い出が存在しそこに私たちが歩んだ青春や歴史が残っています。

私たちが生きた証というものは、どのように活きたかでありますが、これはどのような場面をどのような場所で生活したのかということと密接につながっていると思うのです。

人生が味気なく過ぎ去ってしまうものだとしたら、本当に勿体ないことだと思います。一度しかない人生、一期一会の仲間たちとの大切な時間をどのように過ごすのかは、その人の生き方が決めるように思います。

そういう思い出を飾っていくことで、人生はすでに素晴らしいものであるという実感を得ることができるのです。生死を深めてみると、生死の間がどうであったのかの方が大切だということに気づけます。

そう考えてみると、もっと大切なのは思い出をどれだけ創るか、思い出をどれだけ美しくするかによるものであると私は思うのです。一度しかない人生で、同じ目的のために回り逢える仲間というのは家族のようなものです。

その家族を大切にしていくことと、思い出を美化していくことはイコールではないかと思います。

日々は流されていくものですが、流れを楽しむ余裕とゆとりを要所要所で実感していたいと思います。

「散る桜、思い想いに、花ひらく、一睡の夢、醒めど眩しく」 藍杜静海

素晴らしい体験を有難うございました。

正心正意

日々に様々な出来事が起きる中で分からないことばかりが続きます。

そうして分かろうとするということと、どのような意味があるのかを同時に取り組む中で学問は深くなりまた楽しくなるものであろうと思います。しかし分からないということは、その分からない状態を解消しようと人は悩み迷い探すように思います。

何かのなくした欠片を探すように、人はそのあるはずだと思っているものを探す生きもののように思います。人生とはひょっとすると、そういう自らの欠片を探し求めていくものかもしれません。

何かの意味があると思う心には、どこか自分を超えた存在があってそこに導かれているという感覚や教えが入っているという心の世界があります。

目に見えるものと目には見えないものがあり、両面を照らして中間に合わせて観た時に、ああ、こういう意味があったのかと感じるのが中庸ではないかと思うのです。それにはバランスが必用で、どちらかに偏らないようにと精進しないといけません。

しかし今の時代は情報化社会で、すぐに手を伸ばせば様々な書籍はすぐに購入でき、インターネットを使えば瞬時に誰かの過去の出来事や情報が入手できるようになりました。しかしそれで知識が先に入っても、それを真心で実践していなければやはり意味づけしていくことはできないように思います。

だからこそ妄想に流されないように一つ一つの出来事に心を籠めて本質的に取り組むという丁寧な日々を送ることのように思います。自らの人生を充実させていくというのは、その両輪を自らで助け自らで廻して愚直に歩み道を往くことかもしれません。

そしてそれは真心を尽くしていく、そして感情を澄ませていくことなのかもしれません。
此処に来て、感情というものを素通りできないことを学び直しています。

最後に中庸にこうあります。

「唯天下の至誠のみ、能く其の性を盡くすことを為す。」

自らの正心正意、つまり心と感情の素直な実践、その誠心誠意こそが中庸であると。

この意味をもう一度、求め直していこうと思います。

大前提と刷り込み

人は無意識に自分の中に壁をつくるものです。

それが刷り込みともいい、自分で思い込んでしまうとなかなかそれを自分で取り払うことができません。特に長い間、それが常識とされてきてはなおさら今さらそれに気づくこともありませんしそのことから新しく変化することができずに低迷してしまうことがあります。

そこには大前提というものがあるように思います。

例えば、大前提として・・はできない、大前提として・・はありえない、大前提として、・・は無理だからと、その大前提はそのままに夢を叶えようとしたり、目標に向かおうとしたりするものです。

この大前提というものが引っかかることも刷り込みともいいます。今までの生き方や働き方を壊すというのは大変勇気がいることで、人は元来保守的でなかなかそれを壊すことができないのであろうと思います。自分を守りながら同時に攻めるというのは、身動きが取れないことにもつながっているからです。本来は、自分を守ってくれるからこそ攻めるとしたり、守るから攻めてくれとなるのが仲間であるし信頼、一家であるように思います。

しかしその外すことができない自分の中の大前提こそが、その人の足枷になっているものでそれがあるから変化を恐れる心もまた同時に外れないのだと思います。それを拭い去るには、真に追い込まれたり、何か状況がそうはいってはいられないことなどが発生すれば人は自然にその壁を超えないとと覚悟が決まるように思います。

実際は、それでも刷り込みにもっていかれて八方ふさがりになってしまうものです。そういう私も会社の枠組みや既存の仕事の枠組みに囚われ、いつまでたっても似たところで引き戻されたりしながらそのゴムひもの継ぎ目を取り払うことに挑戦の日々です。身動きが取れないときこそ、自分の中に大前提がないか、自分の中の刷り込みはそのままにしていないかと、自らを素直に反省し一つ一つを自明して実践し改善していくしかないように思います。

そうして刷り込みを取り除くことができれば、人は勇気をもって大きく変化していくことができます。

新しい変化を伝道するのが使命なのだからまずは自分の中にある大前提にどう気づいてもらい、どうそれを取り去るのか、それがライフワークであることが大事であろうと思います。まずは自分自身から理念を掲げ、大前提を取り払い続ける柔軟性を学びと反省と実践で磨いていきたいと思います。

自分に矢印

日々の出来事の中で、その問題が何のせいかということを想うことがあります。

そもそも自他のせいと何かを責めるという考え方そのものは素直とは言わないように思います。言い訳をするところから人は反省をしなくなるからのように思うのです。自分に矢印といっても、相手か自分かという意味での矢印ではなく、常に自分を素直に変化させていき続けるかという意味での矢印は自分というのが本質であろうと思います。

どこか何かのせいにするというのは、大切なことに気づけなくなるというものです。正直というものは、常に自らを正すため直すという意味になるように思います。

しかしではなぜそれが分かっていてもできないのかは、そこに競争社会での刷り込みや他人と比べて自分がどうかと理解してほしいとかいった自我のプライドがあるからのようにも思います。特に人間関係の中で、互いが認め合わずにいがみ合い、自分を先にと主張すればそこに謙虚な姿勢や態度が働かずちっぽけな発想の中で囚われてしまいます。これぐらいやったらいいだろうや、ここまでやっているのだからなどという発想は自分自身が他と比べて自分を善くみせたいがためであることが多いように思います。

本来の自分を世の中へ役立てていくために己に克つための修行などもそうですが、何が修行かといえば自分の善くないと思われる思想や行動を修正し、それを実践することで直していくことで本来の夢を実現していくのが理性と感情を併せ持つ人間の業のように思います。

自分が好きなことや楽しみながら誠実に遣り切ることに真摯に取り組めば、自然に他人は認めてくれるし助けてくれるものです。そうしてまた教えてくださっているや、また自分の善くないところを指摘してくださっていると謙虚な心で感謝まで高まれば、自分次第で現実の運命をどうにでも転換していくことができるように思います。

つい、自分のできることを行わずに誰かにすがったりしてしまえば相手次第になって自信も失ってしまいますし自分で自分が立てることもできなくなっていきます。

物事は、自分でできることに人事を尽くし、後は天にお任せしていけばすべては自分次第になるように思います。当てにし言い訳をするのではなく、言い訳をやめて反省をすれば人はみんなどうにでも変化していけるように思うからです。

反省はしようとしてできるものではなく、やはり痛い目にあって怖い目にあって辛い目にあって感情と渾然一体になった中で深く気づき変わろうと決意するように思います。また同時に、素直は有難いと感謝し、素晴らしいと感動し、もったいないと感激する中でその感情と一体になったときに同じく高く気づき変わろうとする決心をするように思います。

何でも試行錯誤していくことを尊いと念じ、人事を尽くしていくことで不安もまた解消され後はお任せとお気楽なところに入るように思います。不安な時こそ、まだ人事を尽くせるのではないかと自分を省み実践を追及していきたいと思います。

子どもたちの夢

先日、子どもたちの夢について学校での話を聴く機会がありました。

自学という時間に、自分の夢を書きなさいというものです。書かないと帰れないというのでみんなそのプリントの例から選択したり、周りをみながら必死に自分の夢を選び書くそうです。そういえば、昔、小学校の時、同じように将来の夢について書いてくる宿題があった気がします。

その時は、みんな野球選手とかサッカー選手、飛行機のパイロットや、学校の先生などと書いていて、周りを見ながら自分なりになりたい職種職業を書いたものです。

しかし、これはよく考えていると今の社会問題ともつながっている気がします。

もともと夢とは何かといえば、職種や職業になることではなくそれを通して自分が何をしたいか、どうありたいかというものが本来の夢であるからです。就職面接も自分をしっかり持たないで来る人が多いのは自分の夢を漠然を職種職業の中のものだと思っているからのような気がします。

例えば、最初は大工さんという職種でもいいのですが実際に大工になってどうしたいのかと掘り下げて聴いてあげると、「人が元気になる家を創りたいとか、家族がずっと幸せでいられる家を建てたいとか、永遠に壊れないような記憶に残るものを設計したい」とか、そこに本来の夢の置き場があるのです。

それを単に職業=夢にしてしまえば、就職したら違かったと転職を繰り返すようになるのも無理はなくそれは夢ではなく刷り込みであろうと思うからです。よく就職したばかりの新人が、入ってみたけれど違かったとすぐに退職したり転職するのは、その前に自分の初心を自ら確かめ信じていないからのように思います。

もしも自分がなぜそれをしたいのか、どんな目標や夢があるのかを自覚していれば本当に遣りたいことの実現のためのプロセスとして今の人生と運命を受け容れ、未来の夢に向かって希望を持って精進していくことができるように思います。

子どもに職業が夢だを教え込むのは、何か大きな勘違いがあるように思います。何もしならない子どもにそういう教え方をすると間違ってしまうこともあるように思います。もっと大人たちが夢を語る事が大切であるように思います。それは初心を何度も語り合うことではないかと思います、一度だけではなく折あるごとに何度でも語り合うのです。

私も、遣りたいことを遣っていますから夢が叶い続けている真っ最中でどんどんその夢は膨らんできています。そして目標も自分だけのものから周囲の人たち、また世界中の人達、人類を巻き込んで膨らみ続けています。

「未来の子どもたちが幸せに暮らしていけるような世の中を創りたい。そのために子どもの幸せが世界を変えることを信じたい。そしてそれを自分の生きている世代を正しい実践を積み上げて自らの責任を果たしたい。」

それが当下の目標なのかもしれません。後はそれに期限を設けることですが、実践を徹底すれば自分次第で期限は顕われてくるのでしょう。覚悟への入り口は、夢の入り口だからかもしれません。

夢は妄想ではなく、本質的であり理想のことだからです。

常に矢印は自分へ向けて自分がどんな夢を持っているか、子ども心に抱いた夢が大人になって豊かになり膨らんで幸せになるような実践を続けて楽しい日々を過ごしていきたいと思います。

 

正直と自立

人間には感情というものと理性というものがあると言われます。そしてそのバランスが調和していくことで穏やかで豊かな一つの人格が形成されていくように思います。

しかし実際は頭で考えているようにはいかないもので、喜怒哀楽というものもその時々の自分の感情の波によって大きく左右されていくものです。時として、それが親子であったり、兄弟、その他、身近な関係であればあるほどに感情が起伏してしまい衝突してしまうものです。

例えば、親子であれば子どもは親に嫌われたくないと潜在意識の中で思っています。これは子どもは親に嫌われれば生きてはいけず、無意識にも親に気に入られたいと思っている感情のフィルターが通っているからです。そして親の方はどうかというと、子どもは自分を好きでいて当たり前だと潜在意識の中で思っています。これも、生存本能であり自分の子孫を残していくための感情のフィルターが通っているともいえます。

こうやって親子間というものは、互いの感情のフィルターがあるのだから気にしていないつもりであっても意識の深層にはその感情のフィルターが通ってしまいギクシャクしたりもするものです。感情のフィルターは、あの心理学で有名な「ヤマアラシのジレンマ」の針のようなもので細な衝突を繰り返しながら適度な距離感を維持していくのもであろうと思います。

しかし、生長が進み思春期や反抗期になって共に親子に自立という時機を迎えます。

この時機に、そのフィルターを超えて自分らしく生きていこう、また互いに人格を持った社会の一員として認め合おうという機会が生まれます。そうやって、親子間だけではなく社会間での関係性を結び直すことで互いに信頼や尊敬といったさらなる改善が生まれそれを自立というのではないかと私は思います。

この互いへの自立というものには、感情の外に理性が必要になるように思います。

それを私は自律というのではないかと思うのです。

感情のフィルターがあったにせよ、それがあることは生存本能ですから取り除くことはできません。取り除いてしまえば逆に大変冷酷な関係になりつながりも失ってしまうからです。感情だけではだめだし、感情を抜いてしまうこともだめでそこに理性とのバランスが必要になると思うのです。

理性とは、自律のことで自分が自分で厳しく自分を正しい方へと向ける力であろうと思います。

私は、感情だけでぶつかる人たちの関係を修羅場と呼びます。そしてちゃんと理性を交えて正しい方へと互いに対話していくことを正念場と呼びます。この正念場というものは、仏陀の八正道でも言われますが、正見、正 思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の8つの正しいを実践するということです。

人間は、ややもするとこの感情がゆえに悲惨なことを体験したり、愛憎から互いを深く傷つけあったりしていくものだと思います。他人を愛すがゆえに、情深きゆえに、人間関係では常に苦楽を通して学びを続けていくように思います。それもまた人間が生活するということの根本だからです。

だからこそそうやってひとつひとつ自律して人格を形成していくことで、真の自立にもまた到達していくようにも思うのです。今のようなつながりが希薄な時代は、より一層、正直に生きていく必要があるように思います。

それは感情を含め理性も容れるといった日々の体験への正対と実践を行うことです。

人生は常に正念場。

正念場だと思って、正直で在りたいと思う自分のままに新たなスタートを切りたいと思います。